劉永福(読み)りゅうえいふく

精選版 日本国語大辞典 「劉永福」の意味・読み・例文・類語

りゅう‐えいふく リウ‥【劉永福】

中国、清末の軍人広東省欽県出身太平天国の乱に参加。敗北後ベトナムに逃亡し、黒旗軍組織清仏戦争活躍日清戦争では台湾防衛にあたった。(一八三七‐一九一七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「劉永福」の意味・わかりやすい解説

劉永福
りゅうえいふく
(1837―1917)

中国、清(しん)末の排外運動の英雄欽州(きんしゅう)(広東(カントン)省欽県)客家(はっか)出身といわれ、天地会系に属し、太平天国滅亡後、呉鯤(ごこん)とともにベトナムに進入、阮(げん)朝に帰順した。1867年、黒旗軍を編成し紅河(ソンコイ川)上流部を支配し、ベトナム・雲南交易により強力な半独立国を形成した。1873年フランス軍人ガルニエがハノイ占領するや、ベトナム軍とともにこれを攻撃敗退させ、さらに1883年ハノイ占領中のリビエールを倒した。清仏戦争に際しては、越南東京(トンキン)(ベトナム北部)経略大臣として清朝派遣の唐景菘(とうけいすう)に従って善戦したが、1885年天津(てんしん)条約により中国に戻り、広東南澳鎮(カントンなんおうちん)総兵となった。日清戦争とともに台湾に渡り、下関条約後も台湾民国総統として抗日戦を続行したが、1896年敗れて帰国した。以後排外運動の英雄として、しばしば要職についた。

[桜井由躬雄]

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改訂新版 世界大百科事典 「劉永福」の意味・わかりやすい解説

劉永福 (りゅうえいふく)
Liú yǒng fú
生没年:1837-1917

中国,清末の軍人。広東欽州(現,広西チワン(壮)族自治区)の人。傭士の出身で武芸に優れ,1857年(咸豊7)広西で天地会反乱に参加した。1865-66年(同治4-5)ごろ清軍に追われてベトナムに入り,黒旗軍を名のってグエン(阮)朝に公認させた。73年以来,トンキン地方侵略のフランス軍と戦って勇名をはせたが,85年(光緒11)清仏戦争の講和により清軍とともに引き揚げ,清朝の武官となった。日清戦争の際は台湾にあり,日本の占領に黒旗軍を率いて抵抗,民族的英雄と称された。
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百科事典マイペディア 「劉永福」の意味・わかりやすい解説

劉永福【りゅうえいふく】

中国,清朝末期の軍人。広東欽州(現,広西チワン族自治区)生れ。1857年広西で反体制結社〈天地会〉の反乱に参加。1865年−1866年ごろ清軍に追われてベトナム北部に入り,彼の私軍〈黒旗軍〉はベトナム・グエン朝の公認をとりつける。1873年以降,トンキン地方を侵略中のフランス軍と戦って勇名をはせた。1885年清仏戦争の講和により引き揚げ,清朝の武官となる。日清戦争では台湾で黒旗軍を率いて日本の占領に抵抗,民族的英雄とたたえられた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「劉永福」の意味・わかりやすい解説

劉永福
りゅうえいふく
Liu Yong-fu

[生]道光17(1837).広東,欽州
[没]1917
中国の軍人。貧農出身。当時清国の勢力圏内とみられていたベトナムへのフランスの侵入を防ぐため,1867年農民を主体とする黒旗軍を編成,数千を率いてトンキンに入り,一種の屯田兵となってベトナム人民の協力のもとに抗仏戦を十余年展開した。 85年清仏講和で帰国したが政府に冷遇され,兵力 300に削減された。 94年日清戦争開始の直前,台湾防衛に派遣されたが,樺山資紀総督の率いる日本軍に敗れ単身帰国。 97年南寧で黒旗軍を再編,1915年日本の二十一ヵ条要求に対して抗日戦を呼びかけたが,その直後病没した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「劉永福」の解説

劉永福(りゅうえいふく)
Liu Yongfu

1837~1917

清末の軍人。広東省欽県の客家(ハッカ)出身。広西で盗賊の群れに入り,清軍に追われ,安南に逃れて阮(グエン)朝に帰順。1867年黒旗軍を編成した。73~85年フランスの安南侵略に勇敢な抗戦を続けた。

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世界大百科事典(旧版)内の劉永福の言及

【黒旗軍】より

…19世紀後半ベトナム北部に割拠して,フランス軍に抵抗した中国天地会系の私軍。首領の劉永福は本来,天地会系農民軍の武将であったが,1865‐66年ころ清軍に追われて首領の呉鯤とともにベトナム北部に入り,67年頃からソンコイ川上流の雲南通商路の要衝ラオカイ(老開,保勝)に拠って,中国・ベトナム貿易路を支配する半独立国を形成する一方,グエン(阮)朝に帰順してその私軍黒旗軍を率い,他の中国系匪賊と戦った。しかしソンコイ川を通じての中国交易はフランスの求めるところであり,73年黒旗軍はハノイ占領中のM.J.F.ガルニエを破って殺し,83年にはリビエールを戦死させ,トゥドゥック(嗣徳)帝から嘉賞された。…

【清仏戦争】より

…1862年の第1次サイゴン条約についで,74年の第2次サイゴン条約によってフランスがベトナムを実質上保護領化すると,清は宗主権を主張してフランスに抗議した。82年,劉永福の率いる黒旗軍がソンコイ川流域の鉱山を調査していたフランス隊を妨害したとの口実でフランスはハノイを占領し,清もこれに対抗して北ベトナムへ出兵した。この紛争は84年(光緒10)5月,天津において北洋大臣李鴻章と海軍中佐フランソア・エルネスト・フルニエとのあいだで協定(李=フルニエ協定)が調印されて解決したかにみえたが,協定の撤兵に関する条項が不備であったため,同年6月に再び両国は武力衝突した。…

【台湾民主国】より

…1895年5月25日に樹立され,総統に台湾巡撫唐景崧(とうけいすう),副総統兼全台義軍統領に台湾の挙人邱逢甲(きゆうほうこう)が就任し,年号を永清と定め,国旗も制定された。しかし,北白川宮能久(よしひさ)親王が率いる日本軍の攻撃をうけ,6月4日には唐総統が中国に逃れ,南部で抵抗をつづけた劉永福も10月19日に大陸に逃れたことによって崩壊した。【田中 宏】。…

※「劉永福」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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