前衛劇(読み)ゼンエイゲキ

デジタル大辞泉 「前衛劇」の意味・読み・例文・類語

ぜんえい‐げき〔ゼンヱイ‐〕【前衛劇】

既成の演劇様式を打破して、新しい表現方法を追求する演劇。

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改訂新版 世界大百科事典 「前衛劇」の意味・わかりやすい解説

前衛劇 (ぜんえいげき)

前衛劇あるいはアバンギャルド演劇とは,一つの時代に受け入れられているさまざまな演劇上の通念を打破し,新しい未知の表現を切り開こうとする革新的・実験的な演劇を指すものである。したがってそれは,原則的には時代を問わぬものであるが,普通は19世紀末から20世紀以降にあらわれた,既成の演劇に対するさまざまの革新的演劇運動を,個々の思想的背景や具体的な演劇形式の差異を含みつつも,そこに認められる前衛精神の共通性において,一つの同様のものとして〈前衛〉と呼ぶことが行われている。

 前衛劇とはこのようにあいまいな概念であるから,具体的に誰のどのような演劇を〈前衛的〉として評価するかについても,見解の相違の存するところとなるが,たとえばスイス生れの舞台美術家アッピアAdolphe Appia(1862-1928)やイギリスの演出家E.H.G.クレーグによる舞台空間の一大革新,ウィーン生れの演出家M.ラインハルトの壮大なスペクタクル的演出による祝祭的演劇空間の創造,また,革命後のロシアにおけるV.E.メイエルホリドの独創的肉体訓練〈ビオメハニカ〉の実践やV.V.マヤコーフスキーの革命神秘劇《ミステリヤ・ブッフ》の上演などに見られるさまざまの演劇上の革新,絶叫や極端に圧縮されたせりふを多用するA.シュトラムをはじめG.カイザー,R.ゲーリングなどのいわゆるドイツ表現主義演劇,イタリアのF.マリネッティの主唱に基づく未来派の演劇などは,多くの人々が共通にあげる前衛的演劇のいくつかの例であろう。また,ドイツのB.ブレヒトの異化の手法を用いての問題発見とその解決を観客に迫る叙事演劇(のちには弁証法の演劇)も,その時代の,そして時代を超えた〈前衛精神〉の発露として多くの人々の共鳴するところとなっている。

 さらに第2次世界大戦後には,1950年代のフランスを中心に現れた〈不条理absurdité〉または〈嘲弄dérision〉,さらには〈アンチ・テアトルanti-théâtre(反演劇)〉,あるいはのちには単に〈ヌーボー・テアトルnouveau théâtre(新しい演劇)〉などと呼ばれた一群の演劇がある。いわば,その後60年代から70年代前半にかけての世界的規模での前衛劇運動の高まりの原動力となったものであり,また狭義にはこの一連の動きのみをいわゆる〈前衛劇〉と考える人も少なからずいるという点で,いずれにせよこれらの新しい演劇は,20世紀演劇における前衛精神を考える上では,とりわけ大きな意味をもつということができるだろう。

不条理劇〉あるいは〈アンチ・テアトル〉の源泉は,世紀末のA.ジャリ作《ユビュ王Ubu Roi》の上演(1896)にさかのぼるというのが定説となっている。ポーランドという場所の指定がありながらも,かつ〈世界のどこの場所でもなく〉,開幕早々〈糞ったれ!〉という挑発的文句で観客を驚倒させたこの舞台は,のちのシュルレアリスト(シュルレアリスム)たちの演劇の指針となった。1917年に上演されたG.アポリネールのシュルレアリスム劇《ティレジアスの乳房》は,妻が男性に性転換し,一方女性になった夫が4万0049人の赤ん坊を生むという奇怪な内容だが,その独創性で50年代演劇の先駆となった。リブモン・デセーニュ,レーモン・ルーセルなどの作品,あるいは《ユビュ王》初演30年後に結成された〈アルフレッド・ジャリ劇場〉の推進者R.ビトラックA.アルトーなどの実験的作品がその後に続く。とくにアルトーが主張した演劇における舞台言語の読み直しや,分節言語ではなく肉体言語によって空間を肉体的=物理的に埋めようとする残酷演劇の試みは,50年代前衛劇や,日本のいわゆる〈アングラ演劇〉なども含めて,その後の世界的な運動の高まりの中でしばしば見られた試みとほとんど共通のものであり,その先取りであったということができよう。

 40年代の終りころ,パリのカルティエ・ラタンの小劇場を中心にいわゆる〈不条理の作家〉たちが登場した。〈不条理〉という概念は,すでにA.カミュなどに代表される実存主義の作品に認められるが,表現方法として従来の論理的思考に基づく劇作法を完全に否定したところが,不条理劇の特徴である。E.イヨネスコの処女作とされる《禿(はげ)の女歌手La cantatrice chauve》(1950)が,〈反戯曲(アンチ・ピエス)〉とも題されていたように,それは従来の劇作法を徹底的に愚弄するものであった。イギリス風の中流家庭でのイギリス風の夫婦の会話に始まるこの劇では,言語は日常性の意味を離れて核分裂し,それを語る人間のアイデンティティさえも崩壊させてしまう。このようなイヨネスコの劇が,最初ほとんど観客に受け入れられなかったのに対し,アイルランド生れのS.ベケットの《ゴドーを待ちながらEn attendant Godot》(1953)は対照的にパリだけでも300回以上の上演を重ね,世界各国でも上演されるなど,現代演劇でもっとも強い影響力をもつ作品となった。枯木が一本だけしかないという空虚な世界に,ゴドーという人物をただ待っている2人の主人公ウラディミールとエストラゴンの姿は,人間の状況の極限を表したもので,この無限の空虚の中に投げ出された人間は,地獄のような孤独から逃れるためにただひたすらしゃべり続けなければならない。これは主人公たちが人間であることの本質的意味を示すための悲劇的道化芝居であった。このような道化的嘲弄の世界は,初期のA.アダモフ作品や,J.ジュネの世界にも共通するものである。

 60年代に入ると,前衛劇の第一線は交代し,フランスにおいては,F.ビエドゥー,R.デュビヤール,A.ガッティ,R.ワインガルテン,F.アラバルなどが輩出する。とくにスペイン領アフリカ生れのアラバルは,スペイン内戦の個人的体験と,カトリックの典礼のもつ神秘性を混交させた独自の世界を開拓し,J.ラベリ,V.ガルシア,J.サバリなど〈ネオ・バロック〉を名のる演出家たちの活動によって独自の地位を占めた。そしてこのようなフランスの新しい演劇の動きは,多少とも形を変えつつ他のヨーロッパ各国やアメリカへと波及し,たとえばドイツ語圏においてはF.デュレンマット,P.ワイス,P.ハントケ,英語圏ではJ.アーデン,J.オズボーンH.ピンターE.オールビーなどの作家たちが前衛の系譜を受けついだ。アメリカではベトナム戦争を契機にして,政治性を含んだ前衛的演劇運動がオフ・オフ・ブロードウェーなどで多く実践されたが,なかでもニューヨークの〈リビング・シアター〉や〈パンと人形劇団〉などはそれぞれヨーロッパ巡業を行い,ヨーロッパ演劇にも大きな影響を与えた。また,イギリスの演出家P.ブルックによる国境を越えた実験的演劇活動や,ポーランドの演出家J.グロトフスキの俳優の肉体を重視した演技術の創造,あるいはフランスの〈太陽劇団〉の集団創作による祝祭的演劇空間の創造なども,60年代・70年代演劇における最も前衛的な演劇活動として特筆に値するものであろう。
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日本においても1960年代・70年代,とくに67年以降70年代前半にかけては,〈新しい演劇〉の活動がきわめて活発に行われた時期であった。具体的には,当時の新聞紙上を一種の風俗的な〈事件〉としても賑わすことの多かった,唐十郎(からじゆうろう),寺山修司あるいは鈴木忠志(ただし),佐藤信(まこと)などの活動であるが,これらは当時,〈アンダーグラウンド演劇〉あるいはしばしば略して〈アングラ演劇〉などという名前で,マスコミに総称されていた。この〈アングラ演劇〉という名称は,もとをただせば英語からの移入であるが,実際にいくつか現れた地下劇場なども念頭に置いて,その劇的想像力の上で白昼的であるよりは地下的な,体制的であるよりは反体制的な,一群の新しい演劇の全体的傾向をとらえて,ジャーナリズムが命名を行い,しだいに定着していったものと思われる。この一群の演劇には,当時,海外の各国で盛況であったさまざまな前衛劇運動と,直接的・間接的な影響関係があったものも,また逆にそのような関係は認められぬものもあるが,いずれにせよ,そこには世界的規模での〈異議申立て〉の時代における,ある種の同時代的な精神が共有されていたと考えることは,的はずれではあるまい。以下にその動きのいくつかを概観してみることとしよう。

 まず,唐十郎(1940- )の〈状況劇場〉は63年に結成されていたが,その活動が決定的に注目されたのは,67年夏の東京新宿の花園神社境内における紅(あか)テント公演《腰巻お仙義理人情いろはにほへと篇》であった。唐の芝居は,当初ジャーナリズムにおける社会的な〈事件〉としての扱いの方が先行する気味があったが,以降,《少女仮面》(1969,早稲田小劇場初演),《吸血姫》(1971),そしてのちの《下谷万年町(したやまんねんちよう)物語》(1981)にいたるまで,数多くの好戯曲を執筆し,また〈状況劇場〉の演出家兼中心俳優として活発な活動を行ってきた。唐の芝居の特徴をひと言でいえば,自分が育った敗戦直後の東京下町や,少年期に親しんだであろう大衆的な読物などの記憶を下敷きにして,その上に形成された〈暗い情念の夢の劇〉とでもいうべきものであろう。

 次に,66年に早大出身の演出家鈴木忠志(1939- ),同じく早大を中退した劇作家の別役実(べつやくみのる)(1937- )らによって結成された〈早稲田小劇場〉は,早稲田の喫茶店2階に稽古場兼用のアトリエを持ち,別役実,佐藤信,唐十郎らの作品を次々と上演した。70年には,69年の《劇的なるものをめぐってⅠ》に続いて,〈白石加代子ショウ〉と副題の付された《劇的なるものをめぐってⅡ》を構成・上演,これは4世鶴屋南北の《桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしよう)》,S.ベケットの《ゴドーを待ちながら》,泉鏡花の《湯島の境内》などの複合からなる夢と現実のはざまの世界を,同劇団の中心女優白石加代子演ずる狂気の女がさまよい生きるという内容のもので,従来の演劇における〈戯曲〉〈近代的俳優術〉などといった固定化した枠組みを解体させ,ゼロの地点から出発しようとする画期的な試みであった。その後は《トロイアの女》(1974),《バッコスの信女》(1978)などのギリシア古典劇の世界に拠った良質な舞台を作り出す一方,海外でも多くの公演を行っている。独特の身体論に基づく鈴木の演技術の提唱も,多くの人々の注目するところとなっている。

 また,佐藤信(1943- )は,俳優座養成所を出たのち,同じく同養成所の卒業生であった串田和美(かずよし),斎藤憐(れん)らと66年に〈アンダーグラウンド自由劇場〉を結成,同年処女戯曲《地下鉄・イスメネ》を発表して注目される存在となった。自由劇場は68年には〈六月劇場〉〈発見の会〉と合同して〈演劇センター68/69〉と改組,さらに70年からは〈演劇センター68/70〉としてトラックで移動する黒色テント公演に入るが,その中でも佐藤は《鼠小僧次郎吉》《喜劇阿部定--昭和の欲情》など多くの好戯曲を執筆・演出して,中心的な役割を果たした。

 また,学生時代から短歌や俳句,詩などで早熟な才能を示していた寺山修司は,67年,東由多加(ひがしゆたか),画家の横尾忠則らと〈演劇実験室天井桟敷〉を結成,同年《青森県のせむし男》《大山デブコの犯罪》《毛皮のマリー》を執筆・上演して一躍,脚光を浴びた。これらは都会の暗い密室のなかに,突如として侏儒(しゆじゆ),大女,女装者,美少年などの奇優・怪優を出現させる強く〈見世物〉的な性格を帯びた劇であったが,そのような巧みに演出された反・公的な世界,日常世界の規範によって負の価値を帯びたものとしていわれなく排除された肉体・精神が共存する〈全的な世界〉の中で,われわれの無意識下に潜むさまざまな想念が検証されるのであった。寺山の前衛の精神は,日本のこの時代においては最もラディカルなものであり,たとえば上演時間の半分近くが真っ暗闇で,観客はそれぞれの想像力によって見えない部分を組み立て演劇を作りあげるという《盲人書簡》(1973,74)や,75年の4月19日午後3時から翌20日の午後9時にいたる30時間に,都内の二十数ヵ所で同時多発的に行われセンセーションを巻き起こした市街劇《ノック》,また観客席に多数の俳優を配して観客を不意打ちすることにより,観客自身を主人公としてその存在の意味を問う《観客席》(1978)などは,怠惰に習慣化した演劇行為と演劇の場を,その根底から揺さぶる試みであった。寺山は多くの海外の演劇祭に参加して国際的な声価を高めたが,83年5月,47歳の若さで死去した。

 60年代・70年代のこれらの新しい演劇の動きは,総じていえば〈標本箱におさめられきれいに陳列されてしまうような,怠惰な演劇への批判〉(鈴木忠志の寺山修司への弔辞より),すなわち既成の〈新劇的なるもの〉への批判であり,この批判の力によって,日本の演劇は西欧から移入し,数十年を経て1950年代には一応の日本的な完成を見た〈近代写実様式〉を,いくらかなりと乗り超えることができたのであった。これらの〈新しい演劇〉にほぼ共通して見られた特徴をあげれば,明治以降の日本の〈近代化〉のなかで,公的世界に抑圧されて潜在化したさまざまの土着的・民衆的サブカルチャーへの関心であり,彼らはそういった深層の土壌の掘起しのなかで,エネルギーに満ちた新しい演劇宇宙の創造を構想したのであった。そのような全的な演劇宇宙を創造するための,具体的な表現手段としての〈演劇言語〉への関心はきわめて強く,従来の一元的な戯曲の言語,すなわち〈近代的〉な理性的秩序に組みこまれた台詞(せりふ)の言語を解体させ,まったく新たに,身ぶりや肉体表現などの身体的言語や,叫びや言葉の遊びなど,音声そのものへの強い志向性を持った言語などをあわせて,真に統合的な〈演劇言語〉を創出しようと試みたのである。

 世界各国の場合と同様に,70年代も半ばを過ぎるあたりから,この新しい演劇すらも,そのかなりの部分が現代の不可視的な文化構造の枠内に取りこまれてしまい,しだいにその活力を失っていくが,しかし海外のものも含め,この間,種々の〈新しい演劇〉が人々に示し得た視野,あるいは〈世界像〉の把握の仕方とでもいうべきものは,現代のさまざまな〈文化の学〉に対しても示唆するところの大きいものであり,その点でも60年代・70年代のこれらの演劇運動は,きわめて意義深いものであったということができるだろう。
演劇 →新劇
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「前衛劇」の意味・わかりやすい解説

前衛劇
ぜんえいげき

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世界大百科事典(旧版)内の前衛劇の言及

【太陽劇団】より

…1964年に新しい演技の探求と劇団員の平等の権利を目ざして結成されたフランスの前衛劇団。女流演出家ムヌーシュキンAriane Mnouchkineが活動の中心となっている。…

【フランス演劇】より

…そのような場がイヨネスコ(ルーマニア生れ),S.ベケット(アイルランド生れ),アダモフ(ロシア生れ)といった外国出身の不条理劇作家の周縁性と見合ったのである。さらにジュネも含めたこれらの50年代前衛劇は,登場人物・言葉・劇的虚構の解体を軸とした〈道化による存在の劇〉であるが,それはアルトーとR.ビトラックの協力などを除くと散発的であったシュルレアリスムの演劇における開花であるともいえる(なお,ベルギーの作家M.deゲルドロードも先駆者の一人であった)。R.ブランによるベケット(《ゴドーを待ちながら》《勝負の終り》),アダモフ(《パロディ》),ジュネ(《黒ん坊たち》)の初演をはじめ,J.M.セロー,J.モークレールらによる演出の場はいずれも小劇場であり,その面影はN.バタイユとM.キュブリエ演出のイヨネスコ(《禿の女歌手》《授業》)でロングランを続けているユシェット座にうかがうことができる。…

※「前衛劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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