日本大百科全書(ニッポニカ) 「利潤」の意味・わかりやすい解説
利潤
りじゅん
profit 英語
profit フランス語
Profit ドイツ語
利潤とは、売上高からその売上げに要した賃金・地代・利子・原材料費などの全費用を控除した額である。ところで一般に、賃金は労働用役に対する報酬であり、地代は土地用役に対する報酬であり、利子は資本用役に対する報酬であるとされるが、利潤は何に対する報酬であろうか。これにはいろいろな説があるが、通説に従ってそれらを分類すると、次のようになる。
(1)暗黙的要素収益説 個人業主などに顕著にみられるように、利潤といわれるものには生産要素への報酬とみなさるべきものが含まれている。たとえば、本来、本人の労働用役に対する報酬である賃金、本人所有の資本用役に対する報酬である利子、本人所有の土地(自然資源)用役に対する報酬である地代、すなわち暗黙的賃金、暗黙的利子、暗黙的地代要素とみなさるべきものが利潤のなかに含まれている。
(2)独占説 生産要素の供給が、自然に、もしくは人為的に制限されることから生ずる。
(3)新機軸説 利潤は企業家の新機軸、すなわち新しい商品の導入、新しい生産方法の開発、新しい市場や供給源の開拓、新しい経営組織の確立、といった事柄に対する報酬であり、これらの新機軸が模倣されて他の企業に普及していくにつれて消滅する。
(4)危険負担説 貨幣経済の特徴は、それが将来の不確実性を内包しているということである。したがって、企業家は事業を行うにあたって危険を負担しなければならず、企業家にその危険を負担させるには、一定の報酬、すなわち利潤が与えられなければならない。
新機軸説もこの危険負担説の特殊ケースであると考えることができる。なぜならば、新機軸はまさに将来が不確実であるがゆえに意味をもつものだからである。
(5)剰余価値説 利潤は剰余価値の転化された現象形態としてとらえられる。すなわち、ある財の生産に投下される労働時間と、その財を生産するために投下される労働力の再生産に必要な労働時間(これは労働者の生活資料の生産に要する労働時間で計られる)の差として定義される剰余価値の現象形態とみなされる。したがって利潤は、労働時間の延長や必要労働時間の短縮によって増加する。なお、この説では、利潤には利子や地代も含まれることになる。
[大塚勇一郎]
近代経済学における利潤決定理論
利潤の概念規定については、上記のようにいくつかの説があるが、次に、現在「近代経済学」において支配的な利潤(または利潤率)決定理論についてみてみよう。
[大塚勇一郎]
限界生産力説
議論を簡単にするために、所得(または費用)は賃金と利潤の二つの範疇(はんちゅう)に大別され、前者は労働、後者は資本所得であると仮定する(それゆえ利潤のなかには利子が含まれ、資本のなかには企業家才能が含まれることになる。また、土地は無視する)。この場合、企業が利潤率極大行動をとるものとすると、要素価格は各要素の限界生産力に等しくなる。すなわち、利潤率は資本の限界生産力に、賃金率は労働の限界生産力に等しくなる。これは次のように示せる。いまY、K、Lをそれぞれ生産物、資本、労働とし、r、wをそれぞれ利潤率、賃金率とする。生産関数を一次同次とすれば、Y=F(K, L)=rK+wLよりy=f(k)=rk+wが得られる。ただしy、kは、Y、KをLで除した値である。利潤率は
と表され、したがってこの極大値は、rをkで微分することによって
という条件で与えられるが、この左辺は資本の限界生産力を表す。また、賃金率wは、この式から
で与えられるが、これは労働の限界生産力を示す。
かくして、限界生産力説は、各要素の需要曲線を意味する限界生産力曲線と各要素の供給曲線との交点で、要素価格が決定されると説く。
[大塚勇一郎]
ケインズ的理論
これは資本家または利潤からの貯蓄性向(sp)と労働者または賃金所得からの貯蓄性向(sw)が異なるという想定にたって、蓄積率が利潤率を決定するとみる。簡単化のためにsw=0と置くと、利潤(P)からの貯蓄――それは経済全体の貯蓄でもある――はspPで与えられる。したがって、貯蓄=投資(I)の均等よりI=spPとなり、この両辺を資本で除すと
が得られる。すなわち蓄積率(左辺)が大きくなればなるほど利潤率(P/K)は大きくなる。そして蓄積率自体は、たとえば企業家の将来に対する予想あるいはアニマル・スピリットによって規定される、とみなされる。
[大塚勇一郎]
マルクス経済学からみた利潤
マルクス経済学においては、利潤は、剰余価値の転化された現象形態として現れる。
資本主義的商品価値Wは、消耗された不変資本の価値c、可変資本の価値vおよび剰余価値mからなる。つまりW=c+v+mである。この商品価値のうち、商品生産のために資本家が費やした価値を補填(ほてん)するにすぎない部分c+vは、一括して費用価格kを構成する。したがって費用価格の観点からは、v部分が生産過程で新しく付加された価値であり、さらに、剰余価値を伴って創造された価値であるにかかわらずそれが消滅し、その資本主義独自の役割も消滅している。それは、資本家の立場からは、商品の生産のための費用が資本支出(c+v)で計られ、その商品の生産に現実に要費している労働支出(c+v+m)で計られるのではないからである。この関係のもと、すなわち、商品の販売という流通を通じて支出されたものを補填する関係を含むもとでは、剰余価値は単に商品価値のうちの費用価格を超える超過分となる。生産過程の終了後、商品流通から復帰するときには、消費された資本価値全体(c+v)の価値増加分にすぎなくなる。
ところが、投下資本価値全体ということでは、この観点はさらに進んで、剰余価値が投下資本のうち価値増殖過程に入り込む消費された価値部分のみならず、固定資本の非磨滅部分のような生産物に入り込まない部分の増加分ともなる。つまり、現実の労働過程では総資本が機能しているから、剰余価値の形成には全部的に寄与しているとみなされる。こうして剰余価値は、生産に充用された資本全体に対する価値増加分となる。
この剰余価値である費用価格を超える超過分は、資本が行う生産から生ずるから、生産に投ぜられた資本のいろいろな価値要素から均等に生じたようにみえ、投ぜられた、したがって充用された資本全体から発生しているようにみえるのである。それが生産に投ぜられた資本のどの部分から生ずるかはまったく問われず、また、資本家にとってはどうでもよいことになる。こうして、投ぜられた資本全体に対する剰余価値の比率として利潤率がとらえられる。これは、剰余価値率の転化された形態にほかならないが、この剰余価値率の利潤率への転化を基礎として、剰余価値の利潤への転化が誘導される。利潤率は、事実上、利潤に先だつ歴史的出発点であるが、このように、投ぜられた資本全体の、資本家的に観念された産物としては、剰余価値は費用価格を超える超過分として、利潤pという形態を受け取る。
利潤は、剰余価値の転化された形態であるが、さしあたりここでは、まだ剰余価値と同じである。ただ、資本家的観念で神秘化されている。といっても、資本主義的生産そのものから必然的に発生してくる形態をとっているのではあるが。商品価値は、いまやW=c+v+mからW=k+pに転化される。一方で労働力の価値が「労働の価値」としての賃金という転化された形態で現れるのに対し、他方その対極では、剰余価値が利潤という転化された形態で現れる。このように、利潤に転化された形態では剰余価値の起源の全秘密や資本と賃労働の関係が隠蔽(いんぺい)される。だから利潤は、費用価格に対応した、費用価格の超過分という、ふさわしい形態で現れる。したがって、剰余価値と利潤とを混同してはならない。
[海道勝稔]
利潤率とその運動
利潤はさしあたり剰余価値と同じ量であっても、利潤率p'は初めから実質的に剰余価値率m'と異なる。
であり、
だから、p'<m'の関係にある。c=0でないからである。さらに
である。利潤率は、年間として計算されると、剰余価値率M'(m'n nは資本の回転数)となるから、
となり、利潤率は、剰余価値率、資本の回転数に正比例し、v/(c+v)すなわち資本の有機的構成の高度化に逆比例する。
ところで、個別的利潤率では剰余価値と利潤とは同じ量であるが、種々の生産部門においては、利潤率の決定要因である剰余価値率、資本の回転、資本の有機的構成は多かれ少なかれ異なっており、商品が価値どおりに販売される限り、価値生産も剰余価値の生産も異なり、部門そのものの個別的な利潤率は異なる。そこで、資本の回転、剰余価値率が一定でも、資本の有機的構成は各部門で異なり、利潤率も異ならざるをえない。
しかし、異なる利潤率から、各部門間の資本間では、競争により一つの中位的または一般的利潤率が形成される。なぜならば、資本は絶えず有利な利潤率を目ざし、その競争の結果、各生産部門における資本が社会的総資本の部分をなす割合に応じて総剰余価値の可除部分を得るからである。社会的総資本の資本構成と剰余価値は、各生産部門の資本構成の平均=平均的費用価格と剰余価値の平均=平均利潤とからなり、かくして生産価値となるのである。この平均的資本構成と一致する商品価格は価値とも一致し、利潤は剰余価値と一致する。だが、資本構成がより高い部門では、平均利潤を得ている生産価格は商品価値より高く、資本構成が低い部門では、商品価値より低くなる。それは、資本の移動=競争を通じて利潤が平均化され一般化されたからである。
したがって、すべての商品は、等しい量の資本に対して等しい率の利潤が実現されるような価格で販売される。各部門の資本構成その他の条件いかんを問わず、各部門の資本を集めた総体としては等しい率の利潤を獲得し、各資本は平均利潤を確保する。これは、生産された剰余価値の実現の問題であり、各部門の分配の問題であって、商業利潤も平均利潤に参加するのである。
このように、商品価値は生産価格となり、利潤は平均利潤となって、量的にも個別的には剰余価値と一致しなくなる。その結果、利潤の本質および起源は完全に隠蔽され、まったく痕跡(こんせき)すら残さなくなり、資本主義的神秘化はさらに推し進められるのである。
[海道勝稔]
『J・ロビンソン著、山田克巳訳『経済成長論』(1963・東洋経済新報社)』▽『P・ガレニャーニ著、山下博訳『分配理論と資本』(1966・未来社)』▽『J・スティグラー著、松浦保訳『生産と分配の理論』(1967・東洋経済新報社)』▽『P・A・サムエルソン著、都留重人訳『経済学(原書代11版)』全2冊(1981・岩波書店)』▽『L・L・パシネッティ著、宮崎耕一訳『経済成長と所得分配』(1985・岩波書店)』▽『K・マルクス著『資本論』第3巻第1篇第1章、第2章(向坂逸郎訳・岩波文庫/岡崎次郎訳・大月書店・国民文庫)』