別当薫(読み)ベットウカオル

デジタル大辞泉 「別当薫」の意味・読み・例文・類語

べっとう‐かおる〔ベツタウかをる〕【別当薫】

[1920~1999]プロ野球選手・監督大阪の生まれ。慶大で史上最高打率5割を記録するなど活躍後、昭和23年(1948)阪神入団翌年から「ダイナマイト打線」の中心的存在となる。同25年、毎日(千葉ロッテ前身)に移り、優勝貢献。引退後は近鉄オリックスの前身)・大洋横浜DeNAの前身)などで監督を務めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「別当薫」の意味・わかりやすい解説

別当薫
べっとうかおる
(1920―1999)

プロ野球選手(外野手:右投右打)、監督。8月23日、兵庫県生まれ。甲陽中(現、甲陽学院高)ではエースで3番を打ち、1938年(昭和13)には甲子園に春夏連続出場、夏はベスト4に進出した。慶応義塾大学進学後も強打を振るい、1942年春の六大学リーグ戦では打率5割を打って首位打者を獲得した。実業団の全大阪を経て、1948年(昭和23)に大阪タイガース(現、阪神タイガース)へ入団した。2年目の1949年にはホームラン39本、126打点をマークして頭角を現し、藤村富美男(ふみお)とともに「ダイナマイト打線」の主軸をなした。毎日オリオンズ(現、千葉ロッテマリーンズ)に移籍した1950年はホームラン43本、105打点で二冠王となり、打率3割3分5厘、34盗塁で、松竹ロビンスの岩本義行とともに初の「3割30本30盗塁」を達成して最高殊勲選手(現、最優秀選手)にも選ばれた。1948年から1953年まで6年連続で外野手のベストナイン。その品のあるたたずまいと、洗練されたプレーぶりで人気を集めた。1952年と1954年から現役最後の1957年までは監督兼任、以降も1958年、1959年は毎日大映(大毎)オリオンズ(現、千葉ロッテマリーンズ)、1962年から1964年まで近鉄バファローズ(のちの大阪近鉄バファローズ)、1967年から1972年と1977年から1979年には大洋ホエールズ(現、横浜DeNAベイスターズ)、1973年に広島東洋カープで指揮をとった。

[出村義和 2016年9月16日]

 選手としての10年間の通算成績は、出場試合891、安打965、打率3割2厘、本塁打155、打点549。獲得したおもなタイトルは、本塁打王1回、打点王1回、最高殊勲選手(現、最優秀選手)1回、ベストナイン6回。監督としての通算成績(20年)は、2497試合、1237勝1156敗104分け、勝率5割1分7厘。1988年(昭和63)野球殿堂(野球殿堂博物館)入り。

[編集部 2016年9月16日]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「別当薫」の解説

別当薫 べっとう-かおる

1920-1999 昭和時代のプロ野球選手,監督。
大正9年8月23日生まれ。慶大,オール大阪をへて,昭和23年阪神に入団。25年毎日にうつり,43本塁打,3割3分5厘,34盗塁を記録し,本塁打,打点の2冠。スマートな長距離打者として活躍。実働10年,通算3割2厘,155本塁打。のち毎日,近鉄,広島,大洋の監督をつとめた。63年野球殿堂入り。平成11年4月16日死去。78歳。兵庫県出身。

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