冷泉院(読み)レイゼイイン

デジタル大辞泉 「冷泉院」の意味・読み・例文・類語

れいぜい‐いん〔‐ヰン〕【冷泉院】

嵯峨天皇が弘仁年間(810~824)に後院として京都の堀川西に造営した御殿。のち、里内裏ともなった。れいぜんいん。
源氏物語中の人物桐壺帝の第10皇子。実は藤壺ふじつぼ光源氏との間の不義の子で、11歳で即位

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精選版 日本国語大辞典 「冷泉院」の意味・読み・例文・類語

れいぜい‐いん ‥ヰン【冷泉院】

[一] 嵯峨天皇が弘仁年間(八一〇‐八二四)、後院(ごいん)として平安京の堀川西、大炊御門南に造営した建物。歴代天皇の渡領世襲財産)であった。初名冷然院。
[二] 「源氏物語」の登場人物。桐壺帝の第十皇子で母は藤壺中宮。実は藤壺と光源氏の間に生まれた罪の子。朱雀帝の即位で東宮となり、一一歳で即位。夜居の僧の物語で出生の秘密を知る。光源氏を準太上天皇にし、若菜下巻で病のため退位

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改訂新版 世界大百科事典 「冷泉院」の意味・わかりやすい解説

冷泉院 (れいぜいいん)

平安時代後院の一つ。南北を二条大路と大炊御門大路,東西を大宮大路と堀川小路で囲まれた4町の邸宅。《大鏡》には〈方四丁にて四面に大路ある京中の家は,冷泉院のみ〉とまであるように広大さを誇ったもので,宮城南東部と大路をはさんで東接しており,またこの院の北東には同じく4町の広さをもつ高陽(かや)院があった。平安遷都の直後に桓武天皇が行幸した近東院は冷泉院の場所と認められ,宮城に近いという点からもこのあたりは離宮の地であったらしい。冷泉院の開始は桓武の子の嵯峨天皇のときで,816年(弘仁7)の秋,行幸した天皇は文人らを召して詩宴を催したのを初見として,以後このような記事はおびただしい。また嵯峨天皇は譲位後の10年余りをここで過ごした。その後,在位中あるいは退位後にここを居所とした天皇は多く,累代の後院と言われるゆえんである。最初は冷然院と書いたが,10世紀中期の天暦年間,村上天皇のときに焼亡に遭い,〈然〉は〈燃〉に通じ縁起が悪いということで〈泉〉に改め,このときから冷泉院となった。多くの殿舎を構え,池庭も優美をきわめ,清少納言も《枕草子》の〈家は〉の段で冷泉院を挙げて賞賛している。しかし,11世紀には冷泉院を壊して一条院に移築するなど,かなり荒れていたらしいが,廃墟には至らず,鎌倉時代まで命脈を保った。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「冷泉院」の意味・わかりやすい解説

冷泉院
れいぜいいん

嵯峨(さが)天皇が弘仁(こうにん)年間(810~824)に後院(ごいん)(天皇が譲位後の居所に予定した御所)として造営した当時の代表的な邸宅。初めは冷然院と書いた。平安京の大炊御門(おおいのみかど)南堀川西(京都市中京(なかぎょう)区)に2町四方の地を占め、寝殿などのほか池の東西に釣台(つりだい)があった。天皇の渡領(わたりりょう)(世襲財産)とされ、院の維持のために所領が付された。仁明(にんみょう)、文徳(もんとく)、陽成(ようぜい)、冷泉(れいぜい)、後冷泉などの天皇が後院、里内裏(さとだいり)とし、文徳天皇はここで没している。875年(貞観17)、949年(天暦3)と焼失したため、再興の際、「然」が「燃」に通じるとして、「泉」に改めた。その後も970年(天禄1)に火災にあい再興されたが、1055年(天喜3)に一条院造営のために建物が移されたために衰亡、敷地には小住宅などが建てられていった。

[吉田早苗]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「冷泉院」の意味・わかりやすい解説

冷泉院
れいぜいいん

古くは冷然院といった。平安時代,京都の大炊御門の南,堀河の西にあった後院。弘仁年間 (810~824) 嵯峨天皇が創設。その後,平安時代を通じて天皇の後院,里内裏 (さとだいり) となった。貞観 17 (875) ,天暦3 (949) 年の2度炎上。天徳4 (960) 年改造されて,「冷然」が「冷泉」と改められた。後冷泉天皇が里内裏としてのちのことは不明。

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世界大百科事典(旧版)内の冷泉院の言及

【後院】より

…冷然院は文徳朝にも後院に充てられ,854年(斉衡1)にはこれに移り,内裏に帰ることなく同院で没した。また朱雀(すざく)院は嵯峨太皇太后の後院に充てられた後,天皇の後院となり,《西宮記》には冷泉(れいぜい)院(もと冷然院),朱雀院を〈累代の後院〉と称している。平安中期以降も,960年(天徳4)村上天皇が内裏焼亡のため冷泉院に移ったのをはじめ,同院はしばしば皇居に充てられ,〈天皇暫らく本宮を避けて他に遷御せんと欲する〉とき,その御在所に充てられるという(《新儀式》),後院本来の機能を保ったが,一方では譲位の盛行に伴い,しだいに譲位後の御所に充てられる例が多くなった。…

【里内裏】より

…今内裏,里亭皇居,里内(さとだい)などの称もあるが,とくに大内(だいだい)と併称して里内の称が多く用いられた。 960年(天徳4)平安内裏がはじめて焼亡すると,村上天皇は累代の後院(ごいん)(離宮の一種)である冷泉(れいぜい)院に移ったが,976年(貞元1)ふたたび内裏が焼失し,円融天皇は太政大臣藤原兼通の堀河第に移って約1年間これを皇居とした。当時冷泉院が冷泉上皇の御所となっていたためであろう。…

【図書館】より

…中国における紙の発明は通説によれば2世紀初頭とされるが,その製法は日本にも7世紀初めまでには伝わっていたと考えられ,同時に漢籍や仏典も請来された。875年(貞観17),宮廷の文庫冷泉院の焼失を機に反省がおこり,中国から渡来した本を確認するため宇多天皇の命で藤原佐世(すけよ)撰述による《日本国見在書目録(にほんこくげんざいしよもくろく)》がつくられる。さらに日中文化の接触にはまず漢字書(辞書)が必要だとされ昌住による《新撰字鏡》が成立する。…

※「冷泉院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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