冠(かんむり)(読み)かんむり

日本大百科全書(ニッポニカ) 「冠(かんむり)」の意味・わかりやすい解説

冠(かんむり)
かんむり

被(かぶ)り物の一種。

[高田倭男]

日本

日本には弥生(やよい)時代まで冠をかぶる習慣がなかったと思われるが、古墳時代に朝鮮半島経由で北方アジアの冠が伝えられ、豪族たちが用い始めた。古墳より出土した人物埴輪(はにわ)に冠をかぶるものがみられ、各地より金銅製の冠が出土している。これは新羅(しらぎ)出土の冠と同じ形式である。『日本書紀』によると、603年(推古天皇11)聖徳太子によって冠位十二階の制が定められ、冠の色によって階級を示すようになった。この冠は位に相当する色の絁(あしぎぬ)で袋状に製し、縁をつけたもの。その後、647年(大化3)に七色十三階の制に改められ、織(しょく)、繍(ぬい)、紫、錦(きん)、青、黒、建武(けんぶ)のように冠名を材質や色絹で表し、複雑なものとなったため、別に鐙冠(つぼこうぶり)とよばれる黒絹のものも使った。682年(天武天皇11)に冠位制を廃して、位は上着の色で示し、黒一色の漆紗冠(しっしゃかん)をかぶることとした。これは、中国で幞頭(ぼくとう)といわれた、正方形の絹や布の四隅に紐(ひも)をつけたもの(髪を束ねて丸めた髻(もとどり)の上から覆って前の紐2本を後頭部で締め、後ろの紐を前に回して髻の根元で締めたもの)の変化形式と考えられる。すなわち、巾子(こじ)といわれる筒型に髻を入れ、その上から漆を塗った袋状の紗をかぶせ、巾子の根元で漆塗りの紗の紐を結んで、余りを後ろに垂らした。またこの冠の下辺両側に同じ紗の紐を1枚ずつ綴(と)じ付け、甲の上、巾子の前で結ぶ。そのほか圭冠(はしばこうぶり)といわれるものも用いられ、これが後世の烏帽子(えぼし)の原型であろうとされている。養老(ようろう)の衣服令に、公服として礼服(らいふく)、朝服、制服が定められた。礼服は五位以上の者が儀式に着用するが、冠の名称は礼服の被り物のみに使われ、衣服と同様、文官、武官の区別があった。天皇について規定はないが、聖武(しょうむ)天皇が732年(天平4)に初めて礼服に冕冠(べんかん)をかぶったと記録されている。これは天冠(てんがん)とも玉冠(ぎょくかん)ともいわれ、上部に板状のものをのせ、その前後に玉を数十個も連ねた糸状の飾りを、天皇は12旒(りゅう)、皇太子は9旒垂らした。朝服は有位の者が朝廷出仕のとき着用し、頭巾(ずきん)をかぶる。これは漆紗冠のことである。平安時代になって礼服は即位式にのみ使われ、朝服が儀式に用いられるようになると、頭巾はふたたび冠とよばれ、礼服の冠は礼冠(らいかん)といわれることとなった。また服装の和様化、長大化にしたがって冠は形式化し、高く直立した髷(まげ)にあわせて、高くなった巾子に羅(ら)や紗を張り、同じ生地(きじ)でつくられた額を覆う甲の後部で接合して黒漆を塗って固くした。このような固形化のために髷の根元を紐で締め付けることが不可能となると、纓(えい)の部分のみを後ろに綴じ付けて垂らし、巾子の下部に穴をあけて簪(かんざし)を挿し、落下を防いだ。鎌倉時代に、強装束(こわしょうぞく)の流行から、さらに形式化して、甲の下地を紙でつくり、纓の付け方も変わって、冠の後部に纓壺(えつぼ)という受けを取り付け、そこへ纓の根元を上から差し込む方式になった。冠の甲の部分を額(ひたい)ともいい、羅や紗で透けるものを透額(すきびたい)といった。冠の前方を高くしたものを厚額(あつびたい)といい、低くしたものを薄額とよび、刺しゅうで菱文(ひしもん)を表したものを繁文(しげもん)、無文のものを遠文(とおもん)の冠とよんだ。

[高田倭男]

中国と朝鮮

中国の被り物には、昔から巾(きん)(1枚の布で頭髪を包む頭巾の類)、帽(ぼう)(頭にすっぽりかぶせる帽子の類)、幘(さく)(頭髪の乱れを整える鉢巻の類)と冠(かん)の4種類があった。冠は主として成人男子が儀礼用に着ける被り物のことをいう。このような冠がいつごろから始まったかは明らかではないが、少なくとも春秋時代(前770~前403)の上流社会で行われていたことは、中国の古典『詩経』『論語』などの記述によって明らかである。なお、これらの文献には、すでに殷(いん)代に章甫(しょうほ)とよばれる冠があったことが記されているし、河南省殷墟(いんきょ)出土の玉製品などにも冠の存在を裏づけるものがある。戦国時代(前403~前221)以後の冠については、河南省戦国楚(そ)墓から出土した彩色木俑(もくよう)や漆絵などからその存在が明らかであるし、秦(しん)代(前221~前206)の冠は、始皇帝兵馬俑坑(へいばようこう)出土の兵俑がそれを証明している。ただし、これを冠とみるか、あるいは巾の一種とみるかについては問題は残るが、一般に武人の冠には雉(きじ)や鶡(かつ)(ヤマドリ)の尾羽を挿す風習があり、そのために武人の冠は鶡冠(かっかん)ともよばれていた。

 漢代に入ると、画像石や墓壁画、漆器の人物画などの遺物が豊富になり、冠の形状やその種類も明らかになるが、とくに『礼記(らいき)』『儀礼(ぎらい)』『周礼(しゅらい)』などの文献には、男子の冠礼(成人式)についての詳細が記されている。さらに天子以下王侯百官が着用する公式の冠については、『後漢書(ごかんじょ)』「輿服志(よふくし)」に、祭服・朝服の冠服制度としてその種類・様式が詳しく記載されている。このような冠制は、その後の歴代中国王朝に受け継がれて清(しん)朝末まで続いたが、中国ばかりでなく、日本、朝鮮、ベトナムにも大きな影響を与えた。

 魏晋(ぎしん)南北朝(220~581)以後、冠の種類や様式は、時代とともに多くの変遷を重ねたが、祭服の冕冠(べんかん)・通天冠(梁(りょう)冠)の制は後漢以来ほとんど変わらず、明(みん)朝(1368~1644)末期(朝鮮では李(り)朝末期)まで行われていた。ただ中国でも、モンゴル人の元(げん)、満洲族の清(しん)などの異民族王朝の場合は、朝服の冠には氈(せん)冠・笠(りゅう)冠などの胡(こ)族固有の冠が用いられた。

 南北朝の末ごろ、頭巾の四隅を裁った幞頭(ぼくとう)が出現し、その軽便さが喜ばれたが、隋(ずい)・唐時代(581~907)には、別名折上巾(せつじょうきん)または翼善(よくぜん)冠とよばれ、天子以下の朝服冠として普及した。宋(そう)代(960~1279)に入ると、この幞頭を漆で固め脚を硬くして左右に張ったり上に跳ね上げたりした。わが国の束帯の冠などはそのたぐいである。中国婦人の間には元来、冠を着ける風習は存在しなかったが、唐代の宮廷婦人の間で胡俗が流行したために婦人の冠が出現した。宋(そう)代に入ると、皇妃の冠として九雉四鳳冠(くちしほうかん)などが正式に制度化されるようになった。北京(ペキン)近郊の明の十三陵の定陵からは、十二竜九鳳の皇后冠が出土している。

 朝鮮では古来固有の冠として折風(ユツカル)があった。その形は両手をあわせた弁状で、元来はシラカバ樹皮や皮革でつくられた北方民族の胡帽であった。三国時代になると羅でつくった折風が貴族官吏の公式の冠に登場し、階級によって羅の色に青・赤・紫・黒などの区別があり、高官や上級武士はこれに金銀を装飾したり、鳥の羽を挿して飾りたてた。また、王族は黄金でつくった豪華な金冠も使用した。

 新羅の統一(668)以後、朝鮮の公式冠には、冕冠・梁冠・幞頭などの、中国王朝唐・宋・明の制度に従った冠が用いられた。しかし、一般官吏の平服時や両班(ヤンバン)階級(士族)の被り物には、馬の尾毛で編んだ折風状の宕巾(タングン)や、広い縁蓋のある笠(カツ)が用いられた。この笠は、新羅古墳出土の人物像にもみられるように、朝鮮南部で発達した特殊な冠であった。また、女性は本来は髪型を豪華に飾りたてるが、冠をつける風習はなかった。しかし、後世になると中国の影響から、花冠が婚礼衣装に用いられるようになった。

[杉本正年]

西洋

古代オリエントに始まる冠は、ビザンティンを経てやがて中世以降のヨーロッパへと広まって定着した。紀元前3000年代、初期王朝時代の古代エジプトには、すでに赤冠net、白冠utenu、二重冠pshentがあった。赤冠は下エジプト王の、白冠は上エジプト王の、そして二重冠は上下エジプトの統一を象徴する王冠で、ボンネット型を基本にした。ほかに鉢巻filletの冠もみられ、以後これら二つの型は冠の基本型として継承された。前1000年代から前500年代にかけてのバビロニア、アッシリアおよびペルシアでの冠にはティアラtiaraとミトラmitra、英語ではマイターmitre, miterの2種類がある。ティアラは元来、頭巾や王冠にあたるペルシア語で、ギリシア語、ラテン語を経て英語にも導入された。いまでは古代ペルシア冠ばかりでなく、ローマ教皇の三重冠(現世、霊界、煉獄(れんごく)をつかさどる)や、婦人の前頭部を飾る宝石をちりばめた盛装用の頭飾りもそうよばれる。これに対するミトラは、元来、鉢巻ないしヘッドバンド型のものをいい、冠を意味するギリシア語からきている。いまでは司教冠(主教冠ともいう)や婦人の盛装用冠として、ティアラとほとんど同義にも用いられる。そして両者をあわせた広義の冠がクラウンcrown(戴冠(たいかん)を意味するラテン語coronareから)で、花冠、葉冠、王冠、宝冠などの総称として用いられる。

 一方、古代ギリシアの冠は環状が主で、生花や木の枝葉、あるいは宝石をちりばめた金銀製などが日常生活のなかで多様にみられた。月桂冠(げっけいかん)laurel crownなどもその典型である。古代ローマではそれが金製の王冠となり、ビザンティン時代に宝飾を伴った半球形の冠へと発展するに及んで、13世紀以降の冠はいわゆる頭巾付きの王冠hooped crownが一般となった。

 冠を意味するもっと下位概念の英語にはコロネットcoronet(貴族の宝冠、婦人の冠状頭飾り)やコーネットcornet(修道女の白頭巾、中世から近世にかけてかぶられた婦人用頭飾りや帽子、貴族や高位者がかぶる小型の冠)あるいはダイアデムdiadem(王冠、主権象徴としての鉢巻)などがある。この語は鉢巻を意味するギリシア語ディアデーマdiademaからきている。

[石山 彰]

『河鰭実英編『日本服飾史辞典』(1970・東京堂出版)』『杉本正年著『東洋服装史論攷 古代・中世』(1979、84・文化出版局)』『沈従文編著『中国古代服飾研究』(1981・商務印書館)』『Lord TwiningA History of the Crown Jewels of Europe (1960, Batsford, London)』


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