内膳庄(読み)ないぜんのしよう

日本歴史地名大系 「内膳庄」の解説

内膳庄
ないぜんのしよう

せん山南東麓の現下内膳しもないぜん・上内膳一帯に比定される。鳥羽天皇の寵妃美福門院が建立した歓喜光かんきこう(現京都市左京区)の所領。同院の娘八条院に譲られ、安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(山科家古文書)に「淡路国内膳保」とみえる。貞応二年(一二二三)の淡路国大田文には津名つな郡のうちに歓喜光院領の内膳庄がみえ、田三〇町・畠からなる所領であった。地頭について同大田文には「地頭藤内家次、兵乱時於国逝去仕、依禁忌、子息守護所賜暇不上洛預之」とあり、地頭家次は承久の乱時には淡路国で死去していたため、その子息らは乱に参加していなかったことが記されており、当庄の関係者が幕府による没官を防ごうとしていたことがうかがわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報