内田康哉(読み)うちだこうさい

精選版 日本国語大辞典 「内田康哉」の意味・読み・例文・類語

うちだ‐こうさい【内田康哉】

外交官政治家熊本県出身。東京帝国大学卒。第二次西園寺内閣以来、五内閣の外相不戦条約会議の全権満鉄総裁などを歴任斎藤内閣の外相として、「焦土外交」と呼ばれる強硬な外交政策を推進した。慶応元~昭和一一年(一八六五‐一九三六

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デジタル大辞泉 「内田康哉」の意味・読み・例文・類語

うちだ‐こうさい〔‐カウサイ〕【内田康哉】

[1865~1936]外交官・政治家。熊本の生まれ。明治末から五度外相を務めた。満州事変後、満鉄総裁、斎藤内閣の外相となり、幣原しではら協調外交に対して、焦土外交とよばれる強硬な外交政策を推進した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「内田康哉」の意味・わかりやすい解説

内田康哉
うちだやすや
(1865―1936)

明治から昭和前期の外交官、政治家。名は一般に「こうさい」と読まれる。熊本藩士の子で、1887年(明治20)帝国大学法科大学卒業、外務省に入る。在外勤務、農商務省課長を経て1897年外務省通商局長となる。以後政務局長、総務長官、清(しん)国公使、外務次官を歴任し、1907年(明治40)男爵。欧米在勤ののち、1909年子爵となり、第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の外相に就任。1916年(大正5)ロシア大使、その後原敬(たかし)、高橋是清(これきよ)、加藤友三郎内閣の外相を務め、伯爵となる。1926年枢密顧問官。1928年(昭和3)パリ不戦条約会議全権となるが、その条約文中の「其(そ)ノ各自ノ人民ノ名ニ於(おい)テ」が国内で問題となり、顧問官を辞任する。1930年貴族院議員、翌年満鉄総裁。満州事変では関東軍に協力し、1932年斎藤実(まこと)内閣の外相に就任すると、「国を焦土にしても譲らない」として「満州国」の承認を強行、「焦土外交」の異名をとった。翌年、国際連盟脱退を推進したが、昭和11年3月12日死去した。

[岡部牧夫]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「内田康哉」の意味・わかりやすい解説

内田康哉
うちだこうさい

[生]慶応1 (1865).8.1. 肥後
[没]1936.3.12. 東京
明治・大正・昭和期の外交官。1887年帝国大学卒業後外務省に入り,アメリカ合衆国,イギリス,国在勤後,通商局長,政務局長,総務長官などを歴任。その後,駐清公使,駐オーストリア大使,駐アメリカ大使を務め,1911年第2次西園寺公望内閣の外務大臣に就任した。さらに 1916年駐ロシア大使,1925年枢密顧問官(→枢密院),1931年南満州鉄道株式会社総裁などの要職につき,この間に原敬内閣と斎藤実内閣の外相に就任。明治から昭和にいたる 3時代の外相として,外務省の中枢に位置した。しかし 1932年の満州国承認,1933年の国際連盟脱退を断行するなど,しだいに親軍的色彩を強め,「国を焦土と化すとも満州国承認を行なう」と議会で答弁し「焦土外交」と称された。伝記に『内田康哉』(内田康哉伝記編纂委員会・鹿島平和研究所編,1969)がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「内田康哉」の意味・わかりやすい解説

内田康哉 (うちだこうさい)
生没年:1865-1936(慶応1-昭和11)

外交官。熊本県出身。1887年帝国大学法科大学を卒業,外務省に入る。外務省政務局長,同総務長官を歴任,1901年以降駐清公使,駐オーストリア,駐米各大使を務める。この間07年に男爵,11年に子爵となる。同年第2次西園寺公望内閣の外相となり,辛亥革命に対処するとともに第3次日露協約を結ぶ。16年駐露大使となったが,ロシア革命で帰国。18年原敬内閣の外相になり,シベリア出兵に反対し,ワシントン会議に対処した。25年枢密顧問官となり,28年のパリ不戦条約会議全権として渡仏,不戦条約に署名したが,同条約中の〈人民ノ名ニ於テ〉が国体観念に反するとして攻撃され枢密顧問官を辞任。31年満鉄総裁に就任,満州事変では関東軍の方針に同調,翌年斎藤実内閣に四たび外相として入閣,満州国承認問題に関連して〈焦土外交〉を提唱し,国際連盟脱退を主張するなど強硬路線を推進した。
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百科事典マイペディア 「内田康哉」の意味・わかりやすい解説

内田康哉【うちだこうさい】

外交官。肥後(ひご)国八代郡出身。帝大法科卒後外務省に入り,公・大使を歴任。1911年第2次西園寺内閣の外相。以後満鉄総裁,枢密顧問官につく。1932年斎藤実内閣の外相となり,満州国承認,国際連盟脱退などの強硬外交策をとり,幣原喜重郎の協調外交に対して焦土外交と評された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「内田康哉」の解説

内田康哉
うちだやすや

1865.8.1~1936.3.12

大正・昭和前期の外交官・政治家。肥後国生れ。東大卒。1887年(明治20)外務省入省。第2次西園寺・原・高橋・加藤友三郎の4内閣の外相を務め,シベリア出兵・パリ講和会議・ワシントン会議などに対処した。1925年(大正14)枢密顧問官に就任,28年(昭和3)不戦条約全権委員となるが,同条約批准問題により顧問官を引責辞任。満鉄総裁をへて,32年斎藤内閣の外相に就任,国際連盟脱退・満州国承認などを断行し,焦土外交と評された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「内田康哉」の解説

内田康哉 うちだ-こうさい

1865-1936 明治-昭和時代前期の外交官,政治家。
慶応元年8月10日生まれ。駐米大使などをへて明治44年第2次西園寺内閣の外相。昭和6年満鉄総裁。翌年斎藤実(まこと)内閣の外相となり,「日本は焦土となっても満州をまもる」として満州国を承認し,国際連盟脱退を断行した。昭和11年3月12日死去。72歳。肥後(熊本県)出身。帝国大学卒。名は「やすや」ともよむ。

内田康哉 うちだ-やすや

うちだ-こうさい

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旺文社日本史事典 三訂版 「内田康哉」の解説

内田康哉
うちだこうさい

1865〜1936
明治〜昭和初期の外交官
肥後(熊本県)の生まれ。第2次西園寺内閣以来,外相就任5回。不戦条約会議の全権となる。南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁として満州事変に協力し,1932年斎藤実 (まこと) 内閣の外相となり満州国承認・国際連盟脱退などの強硬外交を展開した。幣原 (しではら) 喜重郎の協調外交に対して焦土外交と評された。

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