公武合体運動(読み)こうぶがったいうんどう

山川 日本史小辞典 改訂新版 「公武合体運動」の解説

公武合体運動
こうぶがったいうんどう

幕末期,公議政体論を背景として朝廷(公)と幕府(武)の協力によって安定的体制をつくろうとした政治運動。1862年(文久2)の和宮降嫁は幕府による公武合体だったが,尊攘派を激怒させ坂下門外の変で挫折した。これは雄藩の公武合体運動を誘発。すでに萩藩では長井雅楽(うた)が航海遠略策を唱えて朝幕間の調停をはかっていたが,尊攘派により失脚鹿児島藩では島津久光らが62年3月率兵上京,さらに幕政改革の勅命を奉じて江戸に赴き,文久の改革に成功した。63年の8月18日の政変により公武合体派が主導権を回復,翌年の参予会議の成立にこぎつけたが,3カ月で瓦解。佐幕的傾向を保ってきた公武合体運動はその使命を終え,尊王倒幕派に主導権を譲った。

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旺文社日本史事典 三訂版 「公武合体運動」の解説

公武合体運動
こうぶがったいうんどう

幕末,公(朝廷)・武(幕府)の提携により政局安定をはかろうとした政治運動
大老井伊直弼 (なおすけ) の死後,幕府権威の補強策として幕府老中安藤信正や薩摩土佐越前宇和島の諸藩によって推進され,1862年,孝明天皇の妹和宮 (かずのみや) の将軍徳川家茂 (いえもち) への降嫁が実現した。坂下門外の変('62)後は幕府は主導権を失い,翌年八月十八日の政変で尊攘派が一掃され,公武合体派雄藩大名による政局指導が実現した。しかし,長州藩で藩論が「討幕」に転換すると政局は一転し,尊王・討幕運動に押され,薩長連合の密約('66)により事実上消滅した。のち,かつての公武合体派からは公議政体論が打ち出された。

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