八重山地震津波(読み)やえやまじしんつなみ

改訂新版 世界大百科事典 「八重山地震津波」の意味・わかりやすい解説

八重山地震津波 (やえやまじしんつなみ)

1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時ころ,〈石垣島付近東南東数十粁の処を東北東西南西に走る線〉を震源地とし,マグニチュード7.4の地震が発生した。その結果,まもなく未曾有の大津波八重山宮古両列島(現,沖縄県)の島々村々を襲った。津波の被害が甚大で,〈明和の大津波〉とも呼ばれる。当時の記録《大波之時各村之形行(なりゆき)書》には,地震直後石垣島の東海に雷鳴のような轟音(ごうおん),そして退潮現象,東北・東南海上に黒雲のように波が翻り立った,という異常現象のあったことを伝えている。津波は3度も繰り返した。

 津波は石垣島の東岸と南岸で最も激甚をきわめ,宮良(みやら)台地85.4mの高所にまで達し,島の中央部を東から西に横断して名蔵湾に注いだ。島を囲繞するサンゴ礁は防波堤的役割を果たし,波の進行にさまざまな変化を与えたと考えられ,黒島,新城(あらぐすく)両島の惨状に比し,低平な竹富島(いずれも現,八重山郡竹富町)が人的・物的被害を免れるという奇跡的現象を生んだのは,このためであると推測される。またこの津波は,巨大なサンゴ礁岩やシャコガイをおびただしく島々に運び上げており,今に遺存している。この津波による八重山の全潰村は石垣島(現,石垣市)の真栄里(まえざと),大浜,宮良,白保,仲与銘(なかゆみ),伊原間(いばるま),安良(やすら),屋良部(やらぶ)の8村,半潰村は同じく石垣島の新川,石垣,大川,登野城(とのぐすく),平得(ひらえ)5村と,ほかに黒島,新城両村の計7村。遭難者は総計9313人(列島人口の32.22%に当たる)で,うち石垣島8815人(94.7%,在番,頭職等の公職者88人および蔵元公用で離島から来て遭難した376人を含む),黒島293人(3.1%),新城205人(2.2%)。宮古でも退潮現象があり,また巨大なサンゴ礁岩も打ち上げられている。池間,前里,友利,砂川新里,宮国,伊良部(いらぶ),仲地,佐和田(現,宮古島市),塩川・仲筋・水納(みんな)(現,多良間(たらま)村)の12ヵ村に被害があり,計2548人が死亡した。結局,遭難者は八重山,宮古を合わせて1万1861人に達した。

 八重山の遭難者の男女別は,男4024人(43%),女5289人(57%)で,女が1265人も多く死亡した。また子どもの死亡もおびただしく,津波後の凶作・飢饉・疫癘(伝染病)や,人頭税,開拓政策など,琉球王府の政治的重圧とも相まって,明治直前ころまで人口は年々歳々減少の一途をたどり,1万1000人台まで低下した。八重山・宮古の人口が津波前の規模に回復したのは1919年で,実に148年後のことであった。天災212年後の1983年,有志により慰霊之塔が建立された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「八重山地震津波」の解説

八重山地震津波
やえやまじしんつなみ

明和の大津波とも。1771年(明和8)琉球八重山で発生した地震による津波。3月10日朝,マグニチュード7をこすと推定される地震の後,八重山・宮古の島々を3度にわたり大津波が襲った。低い珊瑚礁の島々は波に洗われ,八重山で9300人余,宮古で2500人余の住民が犠牲となる。八重山の被害は深刻で,その後長期にわたり疲弊現象が続いた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「八重山地震津波」の解説

八重山地震津波

沖縄の八重山・宮古両群島で1771年4月24日に発生した地震・津波災害。津波による災害で、1万人以上が死亡したと伝えられる。地震を「八重山地震」、津波を「明和の大津波」ともいう。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

今日のキーワード

靡き

1 なびくこと。なびくぐあい。2 指物さしものの一。さおの先端を細く作って風にしなうようにしたもの。...

靡きの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android