八郎潟(読み)ハチロウガタ

デジタル大辞泉 「八郎潟」の意味・読み・例文・類語

はちろう‐がた〔ハチラウ‐〕【八郎潟】

秋田県北西部、男鹿おが半島の基部にある海跡湖。かつては日本第2の大湖であったが、昭和32年(1957)からの干拓により耕地化し、昭和39年(1964)大潟おおがた村がつくられ、面積の約2割が調節池として残る。
千葉治平の著作。昭和47年(1972)刊。副題「ある大干拓の記録」。

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精選版 日本国語大辞典 「八郎潟」の意味・読み・例文・類語

はちろう‐がた ハチラウ‥【八郎潟】

秋田県西部、日本海に近接してあった湖。米代川雄物川が運ぶ土砂が男鹿(おが)島に連なってできた海跡湖。琵琶湖に次ぐ大湖であったが、昭和三二年(一九五七)国営の干拓事業が着手され、同五二年水路・調整池を残して全面干拓を完了。

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日本歴史地名大系 「八郎潟」の解説

八郎潟
はちろうがた

秋田市の北方約二〇キロにある。かつては東西一二キロ、南北二七キロ、面積二二一・七三平方キロに及ぶ日本第二の大湖であった。北の米代川と南の雄物川によって運ばれた土砂が日本海沖合の男鹿おが島と結びつき、陸繋化したために生れた海跡湖である。昭和三二年(一九五七)から、四分の三が干拓され、東部と西部に承水路、南部に調整池を残すだけとなっている。湖南西部の船越ふなこし水道をもって日本海に通じる。

湖西部には寒風かんぷう山・しん山・ほん山のいわゆる男鹿三山が連なり、湖東部には出羽丘陵西端部に属するもり山・高岳たかおか山・筑紫ちくし岳・三倉鼻みくらはなが湖岸に迫る。男鹿半島と八郎潟の間には砂丘地帯があり、複陸繋島を完成させた砂州と砂丘が発達して八郎潟を抱えている。東部段丘地から流入する河川には、北から三種みたね川・鵜川うかわ川・牡丹ぼたん川・糸流いとながれ川・鹿渡かど川がある。湖東部中央の馬場目ばばめ川は最大の流入河川で、馬場目岳を水源として西流し、内川うちかわ川(浅見内あさみない川)、富津内ふつない川(中津又なかつまた川)と合流して湖東部の沖積平野を形成し八郎潟に注ぐ。湖南部ではゆたか川・馬踏ばふみ川が西流して沖積平野を形成している。

〔呼称の変遷〕

「三代実録」元慶二年(八七八)七月一〇日条に、元慶の乱に際し秋田城下で蜂起した蝦夷の「賊地」一二ヵ村の一として「方口」「方上」がみえる。この「方」はすなわち潟で、方上かたがみは八郎潟の南岸、方口かたくちは北岸の一帯に比定されている。「吾妻鏡」文治六年(一一九〇)一月六日条に「秋田大方」、慶長四年(一五九九)の「御肴請取口之事」(秋田家文書)に「かた」、「梅津政景日記」にも「かた」「秋田かた」とみえる。元和六年(一六二〇)梅津半右衛門から船越村(現男鹿市)肝煎にあてた「掟書之事」(絹篩)に「舟越湖」、貞享三年(一六八六)三月三日の被仰渡候漁場御定別書写(天王村文書)、安永二年(一七七三)の船越潟廻村々諸猟役銀本図帳写(児玉家文書)にはいずれも「船越潟」とみえる。これらはおもに八郎潟南部をさした呼称であろうが、当時船越村が八郎潟沿岸漁業の中心地となっていたことを示している。

八郎潟の呼称がみえるのは近世後期からで、古河古松軒の「東遊雑記」に「八郎沼」とあり、津村淙庵の「雪のふる道」に「水うみは八郎かたといふ。昔かたの八郎といふ人、生ながら神になりて、此みづうみをひらきて住はじめしより、かく名づけたるとぞ」とある。菅江真澄の「雪の道奥雪の出羽路」には「こゝのさかばかりの大雪舟おほぞりあり、網つみなんものとか。

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改訂新版 世界大百科事典 「八郎潟」の意味・わかりやすい解説

八郎潟 (はちろうがた)

秋田県西部,男鹿半島東部の潟湖。干拓前は面積220km2,最大水深4.7m,流域面積669km2の半鹹(はんかん)湖で,琵琶湖に次ぐ日本第2の湖であった。1957年以降の国営干拓事業により,現在の水域は八郎潟調整池と東西両承水路に限られ,面積48km2の淡水湖に変わった。南西端から日本海に通じる船越水道には防潮水門が設けられている。八郎潟は,縄文晩期の海進期には太平山地と男鹿島間の水道であったが,その後,雄物・米代両川の流出土砂などで両者が結ばれ,陸繫(りくけい)島になったため生じた海跡湖である。古くは大方,大潟と呼ばれ,八郎潟の呼称がみえるのは近世後期からである。中世初期には潟の結氷時に男鹿半島と湖東部の交通に潟が利用されていたが(《吾妻鏡》),近世には湖上交通のルートが開け,廻米輸送などに利用されていた。漁業の歴史も古く,近世初期には村地先の潟の専用権が確立され,ワカサギ,ハゼ,フナ,シラウオ,ボラ,ウナギシジミなどを冬季は氷下引網,秋季は打瀬(うたせ)網で漁獲した。氷下引網漁は秋田の商人高桑与四郎が信州諏訪湖の氷下漁法を学んで,考案・完成したもので,1804年(文化1)に与四郎は網1統から銀10匁の役銀取立てを秋田藩に進言し,藩から氷下漁業の取締りを命じられた。網数は同年に50統,55年(安政2)には90統に増加し,潟東部の村々が中心であった。1953年には漁業戸数2770戸,漁獲量6000tを数えたが,干拓の完成に伴なって激減し,調整池などでの小規模な漁業が行われるにすぎない。なお八郎潟漁労用具は重要民俗文化財に指定されている。

潟の開発計画は安政年間(1854-60)の渡辺斧松の八郎潟疎水計画にはじまり,その後幾多の計画がつくられたが,技術的・財政的困難から久しく実施されなかった。1957年オランダの技術と世界銀行の協力を得て,農林省は総事業費331億円で干拓事業に着工,64年に干陸式を行い,大潟村が誕生した。干拓計画は潟水面の約80%にあたる中央部157km2と周辺部15.6km2,その他を合わせて計174.3km2干拓地とし,残りの水面は調整池および承水路とした。農地は大型で道路で囲まれた単位である。1農区は60ha,1枚の圃場(耕区)は約1.25haで1戸15ha所有する近代的大型機械化営農方式が計画され,74年までに580戸が入植した。95年の大潟村の人口は3311,759世帯で,就業人口の84%(1990)が農業に従事し,村域の95%が水田である。大型トラクター,コンバインカントリーエレベーターなどの農業機械が利用され,生産性の高い営農が行われている。また畑作ではアムスメロンや花卉の栽培,肉用牛の飼育も行われる。〈日本のモデル農村〉として名高く,国内外からの視察者が多い。
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八郎潟[町] (はちろうがた)

秋田県西部,南秋田郡の町。人口6623(2010)。八郎潟東岸に位置し,東部承水路を隔てて大潟村に接する。町の大部分は西流する馬場目川の沖積地からなり,中央をJR奥羽本線と国道7号線が縦貫している。中心の一日市(ひといち)は近世に羽州街道の宿場町として栄え,馬場目川の渡船場でもあった。八郎潟の干拓以前はワカサギなどの佃煮製造が盛んであったが,干拓後生産量は低下している。干拓による増反地を含め圃場整備が進み,米作が基幹産業となっている。1976年に農村工業導入地域に指定され,電気機械工場などの誘致が行われている。秋田市の近郊にあたり宅地開発もすすめられている。副川神社には近世以来の伝統をもつ豊作祈願の願人踊が伝わる。
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百科事典マイペディア 「八郎潟」の意味・わかりやすい解説

八郎潟【はちろうがた】

秋田県西部,男鹿半島基部にある潟湖。面積221.7km2の日本第2の大湖であった。古代・中世には〈方〉〈秋田大方〉,近世前後には船越潟とみえるが,《東遊雑記》には八郎沼とあり,八郎太郎伝説に関連する呼称という。18世紀には廻米輸送や一般の往来に廻船が利用され,また多様な漁法による魚漁が行われていた。1957年以後国営干拓事業が進み,湖周に水路,南部に調整池を残して陸地化した。総干拓面積174.3km2,うち中央干拓地158.7km2大潟村となる。ワカサギ,シラウオ漁などは衰微。
→関連項目秋田[県]井川[町]干拓五城目[町]琴丘[町]昭和[町]天王[町]八竜[町]八郎潟[町]若美[町]渡部斧松

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八郎潟」の意味・わかりやすい解説

八郎潟
はちろうがた

秋田県西部,男鹿半島基部にある潟湖で,男鹿半島とこれをつなぐ2つの砂州によって囲まれた海跡湖。かつては面積 223.2km2,周囲 78km,最大水深 4.7mで,琵琶湖に次ぐ日本第2の湖であった。ボラ,シラウオ,ワカサギ,フナ,ハゼなどの淡水,海水魚が生息し,漁業が盛んであった。早くから干拓の計画が立てられていたが,農林省がオランダと技術提携し,1957年国営事業として着工。潟の約4分の3を干拓し,中央部 156.70km2,周辺部 15.60km2を農地,残りの南部水面を調整池とし,東部承水路,西部承水路により中央干拓地を囲むという大規模な工事であったが,64年工事は完了し,中央干拓地に大潟村が発足した。大農法による日本農業のモデルを形成している。干拓後は面積 27.7km2,周囲 35km,最大水深 12mである。

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世界大百科事典(旧版)内の八郎潟の言及

【大潟[村]】より

…秋田県西部,八郎潟干拓により1964年に誕生した南秋田郡の村。村名は八郎潟の古名にちなむ。…

【八竜[町]】より

…秋田県北西部,八郎潟北部に位置する山本郡の町。人口7739(1995)。…

※「八郎潟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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