八王子(市)(読み)はちおうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「八王子(市)」の意味・わかりやすい解説

八王子(市)
はちおうじ

東京都南西部、多摩地区の中心都市。1917年(大正6)市制施行。1941年(昭和16)小宮町、1955年(昭和30)横山、元(もと)八王子、恩方(おんがた)、川口、加住(かすみ)、由井の6村、1959年浅川町、1964年由木村を編入。916年(延喜16)華厳菩薩(けごんぼさつ)が城山素戔嗚尊(すさのおのみこと)の8人の王子を祀(まつ)ったのが地名のおこりという。市域は関東山地から武蔵野(むさしの)台地に広がり、中心市街地は、山地と台地の接点谷口に位置する。JR中央本線が通じ、八高線(はちこうせん)・横浜線が分岐、京王電鉄京王線が八王子および高尾山(たかおさん)に達している。中央自動車道の八王子インターチェンジがあり、首都圏中央連絡自動車道の高尾山、八王子西の両インターチェンジがある。また国道16号、20号、411号も通る。

 1521年(大永1)大石定重(おおいしさだしげ)(1467―1527)が加住丘陵高月城から滝山に城を移し城下町を建設。のち北条氏照(ほうじょううじてる)の居城となったが、武田信玄(たけだしんげん)の攻撃に対して「滝は落ちる」の意を忌み嫌い、天正(てんしょう)年間(1573~1591)元八王子に八王子城を築き、城下町も移した。1590年(天正18)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の関東平定の際、落城した。江戸時代、幕府の直轄地となり、現在の中心市街地に町が開かれ、甲州口の守りとして関東十八代官、その配下の千人同心(八王子千人同心)が置かれた。また甲州街道宿場町として八日市・横山町に本宿が置かれ、市場町として4のつく日には横山町で、8のつく日には八日市で、月6回の六斎(ろくさい)市が開かれた。周辺は生糸・絹織物の生産地で、その集散地としてもにぎわった。機業は明治後期、力織機の導入とともに中心市街地へ工場が集中し、ネクタイ、男性用着物地、絹毛交織物の特産地を形成してきた。しかし、近年は北八王子、西八王子、狭間(はざま)などの工業団地を中心に電気製品、精密機械などの近代工業が進出するに伴い、機業のうち流通部門は残っているが、生産部門は山梨県の都留(つる)地方へ下請けに出すようになった。多摩地区の中心都市で、JR八王子駅北側から京王八王子駅にかけての一帯には駅ビル、スーパーマーケット、ホテル、銀行などが建ち並んでいる。東京の衛星都市としての性格も強く、多摩ニュータウンの一部をなす南東部を中心に住宅団地が多い。また、1960年代から「学園都市づくり」が推進され、多摩美術大学、中央大学、創価大学、都立大学、帝京大学、杏林(きょうりん)大学、東京工科大学、国立東京工業高等専門学校など、1990年代までに21の高等教育機関が進出した。明治の森高尾国定公園、多摩御陵(大正天皇・貞明(ていめい)皇后の陵墓)、武蔵野御陵(昭和天皇・香淳(こうじゅん)皇后の陵墓)、八王子霊園、小仏(こぼとけ)関跡(国史跡)、都立滝山自然公園などがある。輸出生系を横浜に運んだ「絹の道」が鑓水(やりみず)地区に残り、絹の道資料館がある。北西部の恩方(おんがた)地区は童謡「夕焼小焼」の作詞者中村雨紅(なかむらうこう)(1897―1972)の生地で、「夕焼小焼」の碑や、体験型施設の「夕やけ小やけふれあいの里」がある。廿里町(とどりまち)地区にある多摩森林科学園(森林研究・整備機構森林総合研究所)は森林生物の研究と自然保護の施設である。面積186.38平方キロメートル、人口57万9355(2020)。

[沢田 清]

『『八王子市史』上下(1963、1967・八王子市)』『佐藤孝太郎著『八王子物語』改訂版、3冊(1979・武蔵野郷土史刊行会)』『鈴木樹造著『八王子方言考』(1983・かたくら書店)』


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