八木城跡(読み)やぎじようあと

日本歴史地名大系 「八木城跡」の解説

八木城跡
やぎじようあと

[現在地名]八鹿町八木今滝寺

八木集落の北西、北西―南東方向に延びる尾根(通称城山)の上にある。同所と尾根続き、北西方へ約四五〇メートル離れた地(今滝寺地内にかかる)には南北朝期の築城で、戦国期には当城の詰城であったと思われる八木土やぎつち(単に「つちじろ」ともよぶ)があり、広義にはこの八木土城を併せて八木城という。尾根の東裾では東流する八木川に城の東側を南流してきた今滝いまだき川が合流し、天然の堀を形成している。平成九年(一九九七)八木土城を含め、八木城の名称で国の史跡に指定された。

八木土城の城域は東西約九〇メートル・南北約三三〇メートル。標高四〇九メートルの高所に位置する主郭は一六×一二メートルあり、北―東側に土塁(〇・八メートル)を構築し、周囲に幅の狭い帯曲輪をめぐらせている。主郭の背後(北西)には一七×一七メートルの曲輪と堀切(幅一六メートル・深さ四メートル)を構築しているが、さらにその奥の尾根筋にも小規模な曲輪群がみられる。主郭の前面(南西)には連郭式に一二段の細長い曲輪(最大一四×四二メートル)を配置している。特徴的なのは主郭南東下の曲輪に構築された土塁を使った食違虎口と逆L字状の外枡形虎口が連続していることで、また連続する曲輪の西縁部にはその西側斜面に設けられた主郭への通路を防御するために土塁が構築されている。土城は南北朝期に築城起源をもつ城を戦国期に土塁・堀切などで改修したもので、八木城の詰城としての機能を有していたものと思われる。ただし食違虎口・外枡形虎口は織豊期の天正一三年(一五八五)八木城に入部した別所重棟によって構築されたものと判断される。

狭義の八木城の城域は東西約三四〇メートル・南北約二六〇メートル。標高三三〇メートルに位置する主郭(本丸)は長軸四七メートル・短軸二三メートルのいびつな長方形をしている。南側(枡形虎口)と東側に虎口があり、本丸の城下町(西―南側)には高さ九・三メートル、長さ約五〇メートルにわたって高石垣が構築(野面積み)されている。北西隅に天守台、南西隅に櫓台を造っており、その間を石塁で連結している。西側(裏側)には石垣は積まれていない。本丸周囲には帯曲輪をめぐらせ(西側のみ石垣を構築している)、本丸の北西背後には幅一五メートルの堀切、南尾根には七段の曲輪(最大二三×一六メートル)、南西尾根には六段の曲輪(最大六六×一七メートル)、北尾根には三段の曲輪(最大一九×三四メートル)を配置している。

八木城跡
やぎじようあと

[現在地名]八木町字八木

八木西南部のしろ(三四四メートル)山頂に位置し、京街道(山陰道)を眼下に望む口丹波随一の要害である。丹波国内では八上やかみ(跡地は現兵庫県多紀郡篠山町)黒井くろい(跡地は現兵庫県氷上郡春日町)と並んで三大城郭の一といわれる。丹波守護代内藤氏歴代の居城と伝えるが確実な史料は少なく、「親俊日記」天文七年(一五三八)一一月三日条に「丹州八木城責人数損」とあるのが初見。しかし実際はもっと古く、丹波守護細川勝元が八木本郷ほんごう竜興りようこう寺を創建して龍安りようあん(現京都市右京区)二世義天玄詔を迎えているから、口丹波の守護所が八木周辺にあったことは確かであろう。内藤氏は細川氏の根本被官で、永享三年(一四三一)七月、守護代香西元資が更迭されたのち、守護代として入部した。ただし「太平記」巻一五の「将軍都落事付薬師丸帰京事」に尊氏を庇護したとみえる多紀郡曾地そち(現兵庫県多紀郡篠山町)の内藤氏と関係があるかどうかは明らかでない。

八木城跡
やぎじようあと

[現在地名]安佐南区佐東町八木

阿武あぶ山東南麓、じよう(釈迦岳)とよばれる小山にあり、東南前面に太田おおた川、背後は雲石路(現国道五四号)が通る。承久の乱の功によって香川経景が八木村地頭職に補任され、その子景光が入部し築いた城で、本丸は標高六九メートル、東西三五メートル・南北二〇メートルで、二の丸はその東側にある。南側には土居どいの地名と市場の存在を推定させるえびす神社がある。

応永一一年(一四〇四)九月二三日付の安芸国諸城主連署契状(毛利家文書)には、三三名が連署しているが、香河修理亮之正の名もみえる。この地域は上流に三入みいり(現安佐北区)地頭高松たかまつ城主熊谷氏、下流に銀山かなやま城主武田氏、対岸に地蔵堂山じぞうどうやま(跡地は現安佐北区)城主久村氏がいた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「八木城跡」の解説

やぎじょうあと【八木城跡】


兵庫県養父(やぶ)市八鹿町八木(ようかちょうやぎ)にある豪族八木氏の城跡。山陰道に面した八木集落の後方の山上に所在し、鎌倉時代の八木氏の館は八木城の麓の殿屋敷の地にあったと考えられ、1989年(平成1)に行われた発掘調査の結果、堀・掘立柱建物が検出され、遺物も12世紀後半から14世紀後半にかけての中国陶磁多数のほか和鏡、石鍋などが出土した。南北朝期になると山名氏が山陰道を通じて因幡から但馬に進出してくるが、八木氏は山名氏にいち早く従い、室町期には垣屋氏、太田垣氏、田結庄(たいのしょう)氏とならび、山名四天王と称された。この室町期の居城が土城(つちじろ)で、標高409mの城山の最頂部にあり、土塁をもつ郭(くるわ)が残っている。そして、織豊期に八木氏は羽柴秀吉に従い、因幡に移るが、別所氏が入城したころには城山中腹の平坦地に初期穴太(あのう)積みによる9.5mにも及ぶ高い石垣が築かれた。このように、八木城は一連の場所に鎌倉期の館(殿屋敷)、室町期の土城、さらに織豊期の石垣を築いた城が残っており、きわめて貴重である。この城のもつ歴史的性格と遺構のもつ特色はきわめて重要であるとされ、1997年(平成9)に国の史跡に指定された。JR山陰本線八鹿駅から全但バス「下八木」下車、登山口入り口から徒歩約30分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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