八丁堀(読み)はっちょうぼり

精選版 日本国語大辞典 「八丁堀」の意味・読み・例文・類語

はっちょう‐ぼり ハッチャウ‥【八丁堀】

[一] 江戸、京橋川の下流の白魚橋から東側の川筋。中ノ橋の下を流れて稲荷橋の近くで江戸湾に注いでいた。また、その沿岸一帯の呼称。江戸の治安にあたった町方与力、同心の組屋敷があった。
[二] 東京都中央区の地名。江戸時代は八丁堀の沿岸一帯を呼んだが、現在は川筋の北側にあたる地域をいう。

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デジタル大辞泉 「八丁堀」の意味・読み・例文・類語

はっちょうぼり〔ハツチヤウぼり〕【八丁堀】

東京都中央区の地名。江戸時代、隅田川に通じる堀があり、のち町奉行所与力同心が居住した。現在は商業地
広島市中区の地名。商店街

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日本歴史地名大系 「八丁堀」の解説

八丁堀
はつちようぼり

京橋川の東に続く運河八丁堀を中心とする地域の通称。八町堀とも記される。運河としての八丁堀は寛永年間(一六二四―四四)に通船の便利を図って掘られた堀で、長さが八町あったことから堀の名が生じたといい、この堀名が近隣の町々の通称ともなったという(「御府内備考」など)。当地一帯は徳川家康入府後、慶長年間(一五九六―一六一五)頃に埋立てられた土地で、寛永江戸図では八丁堀は八丁目までとあるが、明暦の大火後の寛文新板江戸絵図以降は五丁目までに区画されている。

八丁堀
はつちようぼり

[現在地名]中区上八丁堀かみはつちようぼり・八丁堀・えびす町・たて

広島城郭の東側外堀に平行して通る筋に面する町で、南は町地の堀川ほりかわ町に続き、北は城門に突当る。東は鉄砲てつぽう町の筋。元和五年広島城下絵図には町名はないが、「是ヨリ南ノ町屋境迄三百八十二間」とある。武家屋敷町で、中位の侍士が居住したといわれる。明治一九年(一八八六)泉水せんすい屋敷(縮景園)内にあった私立浅野学校(修道校)が県に寄付されると、校長であった山田十竹は八丁堀の自邸で修道学校を開校した(新修広島市史)

八丁堀
はつちようぼり

京橋川・もみじ川・三十間さんじつけん堀の合流点から東の亀島かめじま川との合流点までの間の堀。八町堀とも記される。寛永年中(一六二四―四四)に通船のため海口から長さ八町の堀を掘ったことからこの名が付けられたという(御府内備考)。だが「紫の一本」は八丁堀町の所のみの堀名ではなく、京橋下から外堀続きまでをも通じて八丁堀と称するべきとし、たまたま町名に残ったことからその辺りの川名と思うのは誤りであるとしている。また「京橋繁昌記」には京橋川・楓川を合せて八丁堀と称したとしている。

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改訂新版 世界大百科事典 「八丁堀」の意味・わかりやすい解説

八丁堀 (はっちょうぼり)

東京都中央区の地名。寛永年間(1624-44)に通船のため京橋川から隅田川に通じる堀が開かれ,長さが8丁あったので八丁堀と名づけられたという。明治以後,堀は桜川と改称されたが,昭和40年代に一部を残して埋め立てられた。八丁堀には,元禄年間(1688-1704)以降江戸町奉行所の与力・同心約300人の組屋敷があり,与力は〈八丁堀の旦那〉とよばれ,300坪前後の土地を拝領していた。冠木(かぶき)門などを構えて敷地の奥に住み,一部を儒者や医者に貸していた。同心には100坪ほどの地が与えられていたが,これも一部は町屋敷となっていく。八丁堀を冠する町は八丁堀北紺屋町,同金六町,同水谷町があったが,1869年(明治2)に廃された。町名としての八丁堀は1931年に成立したもので,本八丁堀,水谷町,八丁堀仲町,永島町,日比谷町,幸町,長沢町,元島町などを合わせている。日本橋,銀座の東に隣接し,交通の便もよいため,現在では中小ビルの多い商業・オフィス街となっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「八丁堀」の意味・わかりやすい解説

八丁堀
はっちょうぼり

東京都中央区のほぼ中央部にある町名。寛永(かんえい)年間(1624~1644)隅田川に通じる舟便のため堀が掘削され、堀の長さが八町(丁)あったための呼称といわれる。「寛永図」では寺院と武家屋敷があり、元禄(げんろく)年間(1688~1704)には町奉行(ぶぎょう)所の与力(よりき)、同心(どうしん)の組屋敷が支給され、俗に八丁堀の旦那(だんな)とよばれ、町人の畏敬(いけい)の的になっていた。しかし、実際には薄給を補うため敷地の約半分を町人(医者、儒者など)に貸すなどしていた。現在は中小ビルの多い商業地域になっている。東京地下鉄日比谷(ひびや)線の八丁堀駅がある。

[菊池万雄]

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百科事典マイペディア 「八丁堀」の意味・わかりやすい解説

八丁堀【はっちょうぼり】

東京都中央区中部の一地区。寛永年間長さ8町の掘割を作ったのが地名の由来。江戸時代は町奉行所の与力・同心の組屋敷があった。現在は商社や印刷工場などが多い。
→関連項目与力

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「八丁堀」の意味・わかりやすい解説

八丁堀
はっちょうぼり

東京都中央区中部の地区。江戸時代,ここに8丁 (870m) にわたる掘割をつくったのが地名の由来で,町奉行所の与力同心の組屋敷があった。現在は商業地。 JR京葉線,東京地下鉄日比谷線が通る。

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世界大百科事典(旧版)内の八丁堀の言及

【同心】より

…このうち最も著名な江戸の町奉行配下の同心(町同心)について述べれば,定員は中期で南北各100名(幕末には各140名),身分は御家人で,形式上は一代抱えであるが,事実上世襲の職であった。京橋の八丁堀にある組屋敷に居住し,通常30俵二人扶持を給せられた。同心の職掌は,定町廻(じようまちまわり),隠密廻,臨時廻(以上を三廻りという)のように,緋房の十手を持って町中を巡回し犯罪捜査,犯人逮捕にあたる者のほか,年番方(役所全般の取締りや金銭出納),例繰方(刑事判例の調査),吟味方(裁判の審理),牢屋見廻(牢屋の事務監督),赦帳撰要方人別調掛(恩赦),町火消人足改(町火消の指揮)等,警察を中心に行刑,裁判から市政一般にわたる多くの分課があった。…

【与力】より

…幕臣たる与力の身分は,御目見(おめみえ)以下すなわち御家人であるが,石高200石と騎乗の特権を与えられていた。住居は同心と同じく京橋八丁堀に組屋敷を与えられ,このため八丁堀の旦那と呼ばれた。形式上は一代抱えであるが,事実上は世襲の職であって,13,14歳で見習として出仕したのち,与力に採用され,しかも他への転勤はなく一生町奉行所に勤務するものであったから,職務にはよく精通していた。…

※「八丁堀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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