免田事件(読み)めんだじけん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「免田事件」の意味・わかりやすい解説

免田事件
めんだじけん

1948年(昭和23)12月29日深夜から30日未明にかけて、熊本県人吉(ひとよし)市の祈祷師(きとうし)宅で4人が殺傷された事件。強盗殺人などの罪に問われた免田栄(めんださかえ)(1925―2020)は、死刑が確定したが、その後再審が開かれ、無罪となった。死刑囚で初めての再審無罪事件である。

[江川紹子 2017年3月21日]

事件発生~死刑確定

1948年12月30日午前3時半ごろ、夜警に出ていた祈祷師の四男が自宅前を通りかかり、うめき声に気づいて惨状を発見。厚手の重い刃物で頭などを襲われた祈祷師夫妻が死亡し、十代の娘2人が重傷を負った。

 翌1949年1月13日午後9時過ぎ、知人方に滞在していた免田(当時23歳)を、人吉市警の捜査員が連行。午前2時30分ごろに人吉署に到着すると、すぐに取調べが行われた。

 こうした警察の捜査について、後に福岡高裁は再審開始決定のなかで、「令状はもとより、これといった証拠もないのに、日も暮れた後、すでに床についていた請求人(=免田)に同行を求め、深夜厳しい寒気のなかを警察官5名の監視下に約2時間歩行させた後、自動車に乗せて連行したものであることを考えると、任意同行として許される範囲を超え、違法拘束といわざるを得ない」と批判している。

 このときの取調べで、免田が玄米と籾(もみ)の窃盗を自白したため、警察は窃盗容疑で緊急逮捕した。その後免田は、本件について犯行を一部認めたが、まもなく撤回。警察は、1月16日に窃盗事件について釈放した後に、本件で緊急逮捕した。この日の取調べで、犯行を全面的に認める自白調書が作成された。

 免田は、このときの取調べの過酷さを、「睡眠を与えられずぶっ続けで調べられた」「アリバイを主張すると、(捜査員が)床に蹴倒して踏んだり蹴ったりした」「上衣を取られシャツ一枚、暖房のない部屋で取り調べ、寒さで震え、体が硬直してことばも出ないような状態になっていた」などと語っている。

 1949年2月17日に熊本地裁八代(やつしろ)支部で行われた第1回公判で、免田は起訴事実をおおむね認め、殺意のみを否認した。第2回公判でアリバイの存在に言及し、第3回公判からは犯行を全面的に否認した。

 しかし、裁判所は免田のアリバイ主張を認めず、1950年3月23日に死刑を言い渡した。判決は以下のような事実認定を行った。

 免田は妻と離婚になったため、山林伐採作業員として働こうと家を出て知人宅に向かう途中、人吉駅で下車した。辻強盗(つじごうとう)を思い立ち通行人を物色したが、適当な人がみつからなかったため、祈祷師として繁盛していると聞いていた被害者宅に鉈(なた)を持って押し入った。物色中に家人に気づかれたので、家族全員を殺害しようと決意し、鉈で被害者(夫)の頭部をめった打ちに切りつけ、さらに妻や長女、次女も同じようにめった打ちにし、さらに被害者宅にあった刺身包丁で夫の頸部(けいぶ)にとどめをさして殺害した。

 免田は控訴したが、1951年3月19日、福岡高裁は控訴を棄却。同年12月25日に最高裁が上告を棄却し、1952年1月5日に死刑判決が確定した。

[江川紹子 2017年3月21日]

再審請求

免田は、1952年6月に最初の再審請求を起こし、合計6回にわたって裁判のやり直しを求めた。五次までは棄却されている。ただ、第三次再審請求における熊本地裁八代支部(西辻孝吉裁判長)は、新たな鑑定を行い、新たな証拠を取り寄せるなど積極的な審理を行い、1956年8月、免田のアリバイ主張を認めて再審開始を決定した。だが、検察側の即時抗告を受け、福岡高裁がこれを取り消して、再審請求を棄却。最高裁も高裁判断を追認したため、再審は開かれなかった。

 1972年4月に起こした第六次再審請求では、(1)凶器とされた鉈に付着していた微量の血液型が被害者3人と同じO型であるとした警察の鑑定の証明力、(2)被害者(夫)の頸部の傷に最後にとどめを刺したとする自白調書の信用性――などが争われ、法医学鑑定をめぐる論争となった。

 熊本地裁八代支部は、再審請求審においても「疑わしきは被告人の利益に」の原則が適用されるとした最高裁「白鳥(しらとり)決定」を踏まえても、弁護側の出した証拠には新規性や明白性がないなどとして、再審請求を棄却した。

 しかし福岡高裁は1979年9月27日、地裁決定を棄却して、再審開始を決定した。この決定では、(1)については、事件当時の鑑定法では、血液型の鑑定に少なくとも1~2日を要するはずなのに、6、7時間で結論を出している警察の鑑定は信用性が低いとする弁護側の新鑑定を受け入れ、(2)についても、弁護側新鑑定などから、刺身包丁による頸部刺創は攻撃の最初になされたもので最後のとどめでない、と判断。弁護側鑑定は自白の信用に疑問を投げかけ、証拠の明白性があるなどとして、これらの証拠があれば有罪判決には至らなかったと結論づけた。

 検察側は即時抗告したが、最高裁は1980年12月11日、これを棄却して再審開始が確定した。

[江川紹子 2017年3月21日]

アリバイ

免田は、第一審の途中から、犯行のあった1948年12月29日夜から30日未明にかけては、人吉市内の特殊飲食店丸駒に登楼宿泊していた、とアリバイを主張した。

 しかし検察側は、免田が丸駒に宿泊したのは30日夜とみており、免田の相手をした接客婦も、一審の法廷で当初、それに添う証言をした。彼女は、その後「30日と言ったのは間違いで、本当は29日」と証言を訂正したが、変更の根拠がはっきりしないことなどから、裁判所は免田のアリバイを認めず、有罪とした。この判断が高裁、最高裁でも支持された。

 免田は、30日の朝、丸駒を出て列車で知人宅に行き、夜はそこに泊まった、と反論したが、再審請求審においても、第三次の西辻決定を除いては、裁判所にアリバイが認められることはなかった。

 これに対し、再審が行われた熊本地裁八代支部(河上元康裁判長)は、アリバイ問題を重視。1983年7月15日、証拠を細かく吟味したうえで、免田にはアリバイが成立するとして無罪を言い渡した。

 問題になったのは、免田が丸駒に宿泊したのは29日なのか30日なのか、という点だった。検察側は、29日から翌朝まで丸駒にいたとするアリバイ主張を崩すため、再審公判になって、新たな証人を立てた。この新証人は、30日早朝に免田の実家で、泥まみれで放心状態となっている免田を目撃した、と証言。これにあわせ検察は、被告人は事件後に実家に立ち寄ったとして、逃走経路についての従来の主張を書き換えた。

 判決によると、裁判所は判断にあたって、証言が変遷した接客婦や事件後33年経って「突如として現れた」新証人の証言は、「危険な供述証拠」として、いったん横に置き、(1)できるだけ事件当時に近接した物的証拠を第一とし、(2)接客婦や新証人以外の「間接事実を何気なく、あるいは、さりげなく供述していると認められる地味な供述証拠」を積み重ね、(3)それに客観的裏づけがあるかないか見極めていく、という基本的姿勢で臨んだ。

 そして、米の配給日を記録した消費者台帳や家庭用主要食糧購入通帳、移動先で米の配給を受けるために必要な役所の移動証明書などの客観証拠から、免田は30日には前述の知人宅を訪れていた、と認定。さらに、丸駒の接客婦が客からもらって帳場に渡した金額を日々記載した手帳なども、免田が丸駒に宿泊したのは29日であることを裏づけているとして、アリバイの成立を認めた。

[江川紹子 2017年3月21日]

無罪判決後

熊本地裁八代支部での再審無罪判決が言い渡された後、検察官が拘置の執行停止を指揮して、免田を釈放した。検察側は控訴を断念し、1983年7月28日に無罪が確定した。

 その後、八代支部は免田に対し9071万2800円の刑事補償と、弁護団などに1716万5494円の費用補償を決定した。

 最高検察庁は、本件を含む死刑再審3事件に関し、再審無罪事件検討委員会を設置して検証報告書を作成した。そのなかで、免田に対する捜査は、かつての自白偏重から客観証拠に重きを置いた新刑事訴訟法が1949年1月1日に発効したばかりの時期であるため、「検察官も新刑事訴訟法下の捜査の初体験ということで、いろんな意味での戸惑いがあったのではないか」としつつ、ずさんな捜査が行われたことを認めた。とくに、公判で免田がアリバイを主張して以降の補充捜査で、その主張に添う証拠が出ているのに、十分な解明をしなかったと、当時の検察官の対応を厳しく批判。「公判途中の補充捜査において被告人の犯行が疑わしいような証拠が出た場合には、いっそう精緻(せいち)な捜査を遂げて真相を解明し、けっして無辜(むこ)の者を罰することが起こらないように、公正な態度で事に当たるべきである」とした。

[江川紹子 2017年3月21日]

国民年金

社会復帰した免田は、その後結婚し、福岡県内で暮らしていたが、高齢になっても年金を受給できずにいた。国民年金制度は1961年(昭和36)4月に始まったが、この時点で免田は死刑囚として拘束されており、年金についての説明を受けることもなく、加入できなかった。再審無罪となって釈放されたときは57歳で、すでに年金支給のために必要な加入期間を満たすことはできなかった。

 免田は1998年(平成10)4月、無年金状態となった原因は冤罪(えんざい)を生んだ国にあるのに、国が是正・回復措置をとっていないのは重大な人権侵害であるとして、日本弁護士連合会に対し人権救済の申立てを行った。

 日弁連は2002年(平成14)1月、「年金加入の機会を不当に奪われた」「刑事補償はあくまで過去の損害を填補(てんぽ)するものに過ぎず、将来に向かっての生計維持のための年金制度とは目的を異にする」などとして、死刑再審無罪者が年金を受給できるために、必要な措置を講じるよう厚生労働省に勧告した。

 しかし、その後も状況は放置されていたため、免田は2009年6月、総務省・年金記録第三者委員会に国民年金受給資格の回復を申し立てたが、受理されなかった。これに対し、日弁連は厚労省や国会に対し、立法措置などの救済措置を講じるように警告。その後、超党派の議員立法で、死刑再審無罪者に対して国民年金の給付を行うための特例法が国会に提出され、2013年6月19日、全会一致で可決・成立した。

 同法により、死刑判決確定から再審無罪になるまでの保険料を一括して納付すれば、65歳以降の年金相当額が特別給付金として一括支給され、その後の年金も支給される。免田のほか、同じく再審無罪となった島田事件の元死刑囚赤堀政夫も、この特例法で無年金状態から救済されることになった。

[江川紹子 2017年3月21日]

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