光緒帝(こうしょてい)(読み)こうしょてい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「光緒帝(こうしょてい)」の意味・わかりやすい解説

光緒帝(こうしょてい)
こうしょてい
(1871―1908)

中国、清(しん)朝第11代皇帝(在位1875~1908)。「こうちょてい」とも読まれる。廟号(びょうごう)は徳宗。諱(いみな)は載湉(さいてん)。諡号(しごう)は景皇帝。年号により光緒帝とよばれる。父は道光帝の第7子醇賢親王奕譞(じゅんけんしんおうえきけん)。正当な皇位継承の順位ではなかったが、母が西太后(せいたいこう)の実妹であったので、その後ろ盾によって、わずか4歳で即位。事実上の政権は西太后に握られ、名目だけの皇帝にすぎず、生涯西太后の専横に苦しんだ。その治世はイリ事件、清仏戦争、日清戦争などの外圧が相次ぎ、また国内においても社会不安が増大し、清朝の支配は内外ともに行き詰まりを示していた。その危機打開のため、帝は康有為(こうゆうい/カンユーウェイ)、梁啓超(りょうけいちょう/リヤンチーチャオ)らの唱える、日本の明治維新に倣って改革を図る変法自強(へんぽうじきょう)策をいれ、1898年、戊戌(ぼじゅつ)の変法を始めた。その改革は当時の状況に適していたが、西太后ら守旧派勢力の妨害を受け、ほとんど成果を収めないうちに、守旧派のクーデターによりくつがえされ、もろくも失敗した。変法派の康有為らは海外に亡命し、帝自身も宮中に幽閉された。1900年義和団の乱が起こり、列強軍隊北京(ペキン)に入城すると、帝は西太后とともに西安へ逃れた。その脱出混乱の際、帝の愛妃の珍妃(ちんひ)は西太后の手にかかり殺された。翌年和議がなり、北京帰還後も事実上の幽閉生活が続き、革命運動などで揺れる清末の政局にかかわりをもたなかった。08年病死。病弱であったため子はない。その翌日くしくも西太后もにわかに死んだ。

[倉橋正直]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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