光明寺村(読み)こうみようじむら

日本歴史地名大系 「光明寺村」の解説

光明寺村
こうみようじむら

[現在地名]国見町光明寺

大部分は山地で、南部は牛沢うしざわ川のつくった扇状地。そのほぼ七五メートルの等高線上を西根上にしねうわ堰が東流する。東は東大枝ひがしおおえだ(現梁川町)、西は東大窪ひがしおおくぼ村・貝田かいだ村、南は西大枝村。村名は寺院名による。嘉祥年中(八四八―八五一)より湯野ゆの村と称し、康元年中(一二五六―五七)に光明寺村となったとも伝えるが(明治一四年「光明寺村誌」国見町史)、光明寺は伊達氏の祖念西(のちの伊達朝宗)夫人(結城氏の娘)菩提寺として弘安六年(一二八三)伊達政依によって創建されたという(仙台市史)。その後光明寺は伊達五山の一として伊達氏の重要な寺院となり、文明一六年(一四八四)頃には伊達成宗が石川郡の国人領主石川宗光とよしみを通じるため、同寺の僧を派遣している(五月二七日「伊達成宗書状」角田石川文書)

天文七年(一五三八)の段銭古帳に伊達西根だてにしねのうちとして「くハうミやうし」とみえ、段銭は七貫四五〇文。伊達氏天文の乱時、光明寺は伊達稙宗方につき、乱後の天文二二年晴宗によって多くの所領が削られた(晴宗公采地下賜録)

光明寺村
こうみようじむら

[現在地名]高岡市戸出光明寺といでこうみようじ戸出町といでまち三―五丁目

戸出町の南に位置し、南は岡御所おかごしよ村。舟戸口ふなとぐち用水が流れ、千保せんぼ川に続く。村名はかつて光明寺という大寺院があったことによるという(戸出町史)。天正一七年(一五八九)九月四日の前田利秀寄進状(永伝寺文書)永伝えいでん(現小矢部市)加増分として光明寺村五五俵がある。元和五年(一六一九)の家高新帳では戸出又右衛門組に属し、役家数一一。正保郷帳では高八二四石余、田方五四町九反余、新田高五七石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高八四〇石・免五ツ、小物成は野役二一匁・鮎川役三匁、鱒役四匁(うち二匁出来)であった(三箇国高物成帳)

光明寺村
こうみようじむら

[現在地名]永平寺町光明寺

じよう山の北麓に位置し、北は九頭竜くずりゆう川が流れる。西は谷口たにぐち村、南西花谷はなだに村。村内を勝山街道が通る。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では志比下しひしも庄内に含まれていたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方二〇七石余・畠方一八八石余。枝村に元島もとじまがあった(越前国名蹟考)

寛永元年(一六二四)福井藩領から勝山藩領となり、正保元年(一六四四)幕府領福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府領、文政三年(一八二〇)再び福井藩領となる。

光明寺村
こうみようじむら

[現在地名]安濃町光明寺

長谷はせ(三二〇・六メートル)東麓の山間にあり、前野まえの村の南にあたる。村域のほとんどが山地で、階段状に田畑を耕作している。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「六八石余、光明寺」と現れる。江戸時代を通じて津藩領。寛延(一七四八―五一)頃の戸数一三、人口四五、牛二。神祠勝手かつて明神、寺院は光明寺(宗国史)。明治五年(一八七二)の村明細帳(徳川林政史蔵)に、村高に除地はなく、戸数一三、人数四五(男二六・女一九)、馬一、牛四。

光明寺村
こうみようじむら

[現在地名]一宮市光明寺

北は木曾川に面し、西は更屋敷さらやしき村に接する。村名は天台宗光明寺に由来するという。天保村絵図の概高一千九九石余は付家老竹腰山城守の拝領地、田二一町七反余・畑七四町七反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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