光教寺(読み)こうきようじ

日本歴史地名大系 「光教寺」の解説

光教寺
こうきようじ

[現在地名]井波町井波

真宗大谷派。山田山と号し、本尊阿弥陀如来。貞享二年寺社由緒書上ではしよう(現庄川町)所在で、明応四年(一四九五)慶宗が建立とある。加賀山田やまだ光教寺(現石川県加賀市)系の由緒をもち、「諸寺院誌」では歴代住持は康兼(蓮誓)・蓮能・兼順(顕誓)・慶祐とある。山田光教寺は享禄四年(一五三一)には廃絶していたが、「私心記」天文二四年(一五五五)一月二三日条に「光教寺」とみえ、瑞泉ずいせん寺など越中諸寺とともに石山本願寺の斎に参加しており、越中に同名寺院が再建されていた。なお天文二三年六月八日に本願寺に上番した越中河上衆(瑞泉寺下)の「庄慶祐」は光教寺の前身とみられる(天文日記)

光教寺
こうきようじ

[現在地名]満濃町真野 吉井

金倉かなくら川に架けられた満濃橋の南東、旧金毘羅満濃道が県道に続く所にある。吉井山嘉命院と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、貞観年間(八五九―八七七)円珍(智証大師)によって創建されたという。応永一二年(一四〇五)に足利義満の臣伊井伊勢守真観がこの地に移り住み、応仁の乱の京都の戦いで子の伊勢太郎玄親が討死したのを悲しんで仏門に入り、名を了玄と改めた。了玄は子の玄親の菩提を弔うために仏堂を建立して住持したという。

光教寺
こうきようじ

[現在地名]宇和町卯之町

卯之町うのまち山手にある。山号は清泰山、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。開山は明遠(建治元年没か)というが、年代は不明。もとは松葉まつば城下の寺屋敷辺りにあり、西園寺実充が黒瀬くろせ城を建てた時、光教寺谷に移し、寛文二年(一六六二)中興就宅が現在地に移建したという(宇和旧記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の光教寺の言及

【本誓寺】より

…開基を円政といい,越後へ赴く途中の親鸞に帰依して改宗したと伝える。一向一揆の初期には江沼郡山田の光教寺と関係があったようで,蓮如が光教寺に下した七高祖像を伝える。1531年(享禄4)に起こった享禄錯乱(加賀一向一揆)では光教寺などとともに戦い追放処分を受けたが,その後,松任城主鏑木頼信を迎えて住職とし,越前和田本覚寺の下で行動している。…

※「光教寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android