元老(読み)げんろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「元老」の意味・わかりやすい解説

元老
げんろう

第二次世界大戦前に国家の重要政策の決定や首相選任にあたった特定の政治家の総称。明治維新後、維新の元勲(げんくん)として大久保利通(おおくぼとしみち)、木戸孝允(きどたかよし)ら薩長(さっちょう)両藩出身の指導的政治家が中心となって権力を掌握していたが、1889年(明治22)黒田清隆(きよたか)が首相を辞任し、伊藤博文(ひろぶみ)が枢密院議長を辞任するに際して、明治天皇から「元勲優遇」の詔勅を受けた。これが元勲としての身分を特定し、以後、98年に松方正義(まつかたまさよし)が首相辞任に際して同様な詔勅を受けるが、この間に井上馨(かおる)、西郷従道(さいごうつぐみち)、大山巌(いわお)らも同様な待遇を受けた。彼らは後継首相の選任に際して天皇の諮問にあずかり、重要な外交問題や内政上の難局打開の際にも天皇の諮問を受けた。なかでも、伊藤、山県有朋(やまがたありとも)の発言力は大きく、松方、井上は財界への影響力を行使して財政・経済面で手腕を振るった。1901年(明治34)桂(かつら)太郎が首相に就任して以後は、元老自ら政権を担当することなく、日英同盟締結や日露戦争時にはその指導力を発揮し、日露戦争後の桂園(けいえん)時代にも、政権の外にあって影響力を行使した。09年伊藤の死後は山県の発言力が絶大となり、明治末年に桂太郎が、大正初めに西園寺公望(さいおんじきんもち)が新たに元老に加わった。

 しかし大正期には元老の政治的比重はしだいに低下し、1922年(大正11)山県の死後は、西園寺が事実上最後の元老として後継首相の選任にあたった。西園寺は理想的な政党政治の確立を目ざし、24年から31年(昭和6)の政党政治の実現に寄与したが、政党間の泥仕合的な対立や軍部の独走などに苦悩した。西園寺は31年以降、軍部を先頭とするファッショ化の動きのなかで、英米との協調路線を維持し、軍部を抑制できる人材を首相候補に推挙するべく努めた。しかし37年(昭和12)近衛文麿(このえふみまろ)の推薦を最後に、老齢を理由として首相の推薦を辞退し、以後は内大臣を中心とする重臣会議に諮問することになった。40年西園寺の死とともに元老は名実ともに消滅した。

[宇野俊一]

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精選版 日本国語大辞典 「元老」の意味・読み・例文・類語

げん‐ろう ‥ラウ【元老】

〘名〙 (「詩経‐小雅・采」の「方叔元老、克壮其猶」による)
① 年齢・名望・官位の高い功臣
※菅家後集(903頃)奉哭吏部王「元老応朝位立。林亭只有夜禽棲
※太平記(14C後)九「元老(ケンラウ)智化の賢臣共を召されて」
② 長い間一つの部門の内で仕事をしてきた、功労のある人。
※あたらよ(1899)〈内田魯庵〉「貴公なかは三十年節を更(あらた)めずに飴を売っちょる、此長屋第一の元老(ゲンラウ)だ」
③ 明治中期から昭和初期にかけて、天皇を補佐し重要政務の決定などに力のあった政治家。伊藤博文、山県有朋、井上馨、桂太郎ら九人。特に後継内閣首班の推薦と決定にあずかり、憲法に規定されていない存在ではあるが大きな勢力をもっていた。昭和一五年(一九四〇)西園寺公望の死によって消滅した。
※青年(1910‐11)〈森鴎外〉五「国を立つとき某元老(ゲンラウ)に紹介して遣らう」

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百科事典マイペディア 「元老」の意味・わかりやすい解説

元老【げんろう】

旧憲法時代,日本政界の最上層にあって天皇を補佐し,重要政務の決定に参与した政治家。法的規定はないが,明治天皇から〈元勲優遇〉の詔勅(しょうちょく)を受けたか,あるいはこれに準ずる者で,天皇が代わると新たに〈卿(けい)ノ匡輔(きょうほ)ニ須(ま)ツ〉との詔勅が出た。薩長藩閥政治長老がほとんどで,御前会議や閣議に参加し,その権勢を背景に政変の際の後継内閣の首班を決定する事実上の権限を握っていた。伊藤博文黒田清隆山県有朋松方正義井上馨西郷従道大山巌桂太郎西園寺公望の9人が元老と呼ばれる。
→関連項目大隈重信内閣桂太郎内閣御前会議西園寺公望内閣重臣昭和維新帝国議会天皇制内大臣

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旺文社日本史事典 三訂版 「元老」の解説

元老
げんろう

明治〜昭和期,天皇の最高顧問
藩閥の黒田清隆・伊藤博文・山県有朋・松方正義・井上馨・西郷従道・大山巌・桂太郎と公卿出身の西園寺公望 (きんもち) の9名で,法令に基づく機関ではない。「元老」という名称も正式の官職名ではなく慣用的なもの。政党その他反藩閥勢力に備えて,その支配を維持するために考案された政治運用の方式で,後継内閣首班の推薦,国家の重要内外政務について,天皇・政府に対して意見を述べ,その決定に参与した。元老の筆頭山県は原敬内閣成立まで,かたくなに超然主義を維持し,政党政治拒否を続けた。1940年西園寺の死で消滅。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「元老」の意味・わかりやすい解説

元老
げんろう

日本近代史上,明治中期の内閣制度創設から昭和初期まで存在した政界の超憲法的重臣。天皇の下問に答えて内閣首班の推薦を行い,国家の内外の重要政務について政府あるいは天皇に意見を述べ,その決定に参与するなどの枢機を行なった。成文法で定められた役職ではなく,慣習上の制度としてつくられ,明治憲法下における支配体制維持のための機能を果した。元老と呼ばれれたのは伊藤博文山県有朋井上馨黒田清隆西郷従道大山巌松方正義桂太郎らで,1940年最後の元老であった西園寺公望の死とともに消滅した。

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デジタル大辞泉 「元老」の意味・読み・例文・類語

げん‐ろう〔‐ラウ〕【元老】

官位・年齢が高く、声望のある功臣。
ある分野で長い間その仕事に携わり、功労のあった人。「経済界の元老
明治後期から昭和前期にかけて、憲法規定外の存在ではあったが、政務の決定や後継首相の決定などにあずかって力のあった老臣。黒田清隆伊藤博文西園寺公望ら。
[類語]幹部首脳要人重鎮柱石大黒柱実力者有力者大立て者中心人物キーパーソン

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世界大百科事典 第2版 「元老」の意味・わかりやすい解説

げんろう【元老】

明治中期から昭和の初めまで天皇の最高の相談役として政界の最上層にあって,重要事件に際して政局のまとめ役をつとめた特権政治家の一団。当初は伊藤博文,黒田清隆,山県有朋,松方正義,井上馨,西郷従道,大山巌で,いずれもいわゆる〈維新の功臣〉であったが,明治末から大正初めにかけて桂太郎,西園寺公望が加わった。公卿出身の西園寺のほかはいずれも薩長の出身で,内閣総理大臣等の要職を歴任した長老政治家である。憲法その他の法令に基づく職名ではなく,明治天皇から〈元勲優遇〉の詔勅をうけたか,またはこれに準ずる者で,天皇が代わると新たに〈卿ノ匡輔(きようほ)ニ須(ま)ツ〉との詔勅が出された。

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普及版 字通 「元老」の読み・字形・画数・意味

【元老】げんろう(らう)

国の長老。〔詩、小雅、采〕蠢爾(しゅんじ)たる蠻(ばんけい) 大に讐(しう)を爲す 方叔元老 克(よ)く其の(はかりごと)を壯(さか)んにす 方叔ゐ 執訊(しつじん)醜(くわくしう)(捕虜)あり

字通「元」の項目を見る

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世界大百科事典内の元老の言及

【黒幕】より

…統治機構がその構造上黒幕的存在を恒常的に必要とする場合もある。明治憲法下で機構上の最高統治者であった天皇が実質的な政治決定を行う存在ではなかったために,各統治機関の間に対立が生じ,政治的意思決定が困難になる場合があったが,元老と称される人々がその個人的権勢に基づいて政治に非公式に参画し,内閣首班の決定をはじめ政策遂行に大きな影響を及ぼし,その結果として統治機関の統一的運営が可能になるという面があった。第1次松方正義内閣の閣員が弱体なため維新の元勲たちが重要国策の決定にあずかったことが元老の活動の発端とされているが,当時彼らの会合が〈黒幕会議〉と呼ばれたのはその役割を象徴的に語るものといえよう。…

【内大臣】より

… 初代内大臣にはそれまで太政大臣だった三条実美が任命され,三条の死後は侍従長徳大寺実則が内大臣を兼ねた。だがまもなく元老がつくられ,政変のさいの後継首相の決定は天皇が元老の意見を聞いて行ったから,内大臣はとくに政治的役割を果たさなかった。 しかし,大正天皇となって天皇と元老の信任関係が変化すると,内大臣の政治的役割にも関心が払われるようになった。…

※「元老」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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