元総社村(読み)もとそうじやむら

日本歴史地名大系 「元総社村」の解説

元総社村
もとそうじやむら

[現在地名]前橋市元総社町

北は総社町、東国分ひがしこくぶ(現群馬郡群馬町)、西は塚田つかだ村・稲荷台とうかだい(現同上)、南は鳥羽とりば村、中尾なかお(現高崎市)、東は内藤分ないとうぶん村・大友おおども村に接する。上野国府・総社神社の所在地であり、上野国の中心として栄え、また中世には長尾氏が蒼海おうみ城に拠り、当地方の中心であった。中世以前の総社・府中ふちゆうという場合は当地を中心とする地域をさしている。「惣社」と記されることが多い。近世の郷帳類には本惣社村と記される。慶長年間(一五九六―一六一五)秋元長朝が植野勝山うえのかつやま新城を築き、城下町を設営し、新城を総社城として以降、当地は元総社の名をもってよばれるようになる。秋元氏移封後、高崎藩領となり、寛延二年(一七四九)前橋藩領となるが(更正高崎旧事記)、天明二年(一七八二)再び高崎藩領に復したと思われる。寛永一二年(一六三五)の総社領革作分検地帳(元総社西組有文書)によれば、田なし・畑二〇町二反余とある。同様の検地帳が他に九冊あり、弥勒分は田一町三反余・畑二四町七反余、寺田分は田一三町五反余・畑一町六反余、落合分は田四反余・畑一六町九反余、小見内分は田なし・畑一四町九反余、足田分は田四町四反余・畑四町九反余、北河分は田一町四反余・畑五畝余、西河分は田二一町九反余・畑四町七反余、草作り分は田なし・畑二〇町一反余、屋敷分は田なし・畑一一町四反余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報