元田肇(読み)もとだはじめ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「元田肇」の意味・わかりやすい解説

元田肇
もとだはじめ
(1858―1938)

明治・大正・昭和期の政治家安政(あんせい)5年1月15日豊後(ぶんご)国(大分県)に生まれる。旧姓猪俣(いのまた)。国東と号す。1880年(明治13)東京大学を卒業代言人となり、1890年郷里から代議士当選。以後16回当選。大成会国民協会など経て1900年(明治33)立憲政友会入党衆議院および党内に重きをなし、1911年拓殖局総裁、1913年(大正2)逓信(ていしん)相、1920年原敬(はらたかし)内閣の初代鉄道相に就任政友会の積極政策を推進した。後継高橋是清(これきよ)内閣でも留任したが、1922年内閣改造問題で苦境にたち、1924年脱党、政友本党に参加した。1927年(昭和2)復党、1928~1929年衆議院議長。政界長老として遇され、1932年枢密顧問官に任じられた。昭和13年10月1日死去。

[阿部恒久]

『「元田国東翁自伝」(『中央大学学報』11―4所収・1938・中央大学)』『古庄豊著『国東余影』(1939・森採雲堂)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「元田肇」の意味・わかりやすい解説

元田肇
もとだはじめ

[生]安政5 (1858).1.15. 豊後
[没]1938.10.1. 東京
明治・大正・昭和期の政治家。国東と号した。猪俣家の二男として生まれたが,儒者元田直養子となる。開成学校を経て 1880年東京大学を卒業,代言人として開業し,東京代言人組合の組合長を務めた。1890年の第1議会以降,衆議院議員連続当選し,議員生活は 40年に及んだ。初め無所属だったが,のち国民協会に属し,1900年の立憲政友会創立後はほとんど政友会に属した。1911年拓殖局総裁(→拓務省),1913年山本権兵衛内閣の逓信大臣,1920年原敬内閣と 1921年高橋是清内閣の鉄道大臣,1928年衆議院議長,1932年枢密顧問官(→枢密院)を歴任した。

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改訂新版 世界大百科事典 「元田肇」の意味・わかりやすい解説

元田肇 (もとだはじめ)
生没年:1858-1938(安政5-昭和13)

政党政治家。大分の生れ。1880年東京大学を卒業,代言人となる。第1回総選挙に大分県から選出され,以後連続16回当選。はじめ大成会,国民協会など,いわゆる吏党に属する。1900年立憲政友会の創立に参加し,党幹部となる。13年第1次山本権兵衛内閣の逓信大臣,原敬内閣で鉄道大臣,高橋是清内閣に留任。第55議会で衆議院議長に就任した。30年の総選挙で落選して政界を引退したが,32年政党人としてはじめて枢密顧問官に親任された。
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百科事典マイペディア 「元田肇」の意味・わかりやすい解説

元田肇【もとだはじめ】

政治家。豊後(ぶんご)国国東(くにさき)郡の生れ。東大卒。1890年以来40年間衆議院議員を務めた。国民協会に加わり政友会創立に参加。衆議院の正副議長,逓相,鉄道相などを歴任。1932年政党人としては初めて枢密顧問官に親任。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「元田肇」の解説

元田肇 もとだ-はじめ

1858-1938 明治-昭和時代前期の政治家。
安政5年1月15日生まれ。元田直(なおし)の養子。明治23年衆議院議員(当選16回,政友会)。第1次山本内閣の逓信相,原内閣・高橋内閣の鉄道相をつとめ,衆議院議長をへて政党人として初の枢密顧問官となった。昭和13年10月1日死去。81歳。豊後(ぶんご)(大分県)出身。東京大学卒。本姓は猪俣。

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