元(中国の王朝)(読み)げん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「元(中国の王朝)」の意味・わかりやすい解説

元(中国の王朝)
げん

中国の王朝(1271~1368)。モンゴルが金(きん)と南宋(なんそう)を滅ぼし、異民族として初めて中国全土を支配した、いわゆる征服王朝である。元(大元)という国号は、『易経(えききょう)』の「大なるかな乾元(かんげん)」に基づく。

[竺沙雅章]

建国過程

モンゴリアのオノン、ケルレン両川の上流地域に台頭したモンゴル部の部族長テムジンは、周辺の諸部族を平定し、1206年クリルタイ(大集会)において大ハン位に推挙され、チンギス・ハンとなった。中国側ではこの年を元の太祖(チンギス・ハン)即位年とする。彼は強力な軍隊を編成して、東は金領に侵入して黄河以北の河北、山東の地を獲得し、西は中央アジアから南ロシアまで制覇し、アジア、ヨーロッパにまたがる空前の大帝国、モンゴル帝国を築いた。1227年、西夏(せいか)を滅ぼし、金の討伐に向かったが、その途上で病没した。彼の後を継いだ第3子オゴタイ・ハン(太宗)は、南宋と結んで金を挟撃してこれを滅ぼし(1234)、華北全域を掌中に収めた。彼は父の遺業を継いで統治組織を固め、駅伝の制を定め、紙幣を発行し、税法を整え、カラコルム(和林)に都城を建設した。とくに漢地の経営では、チンギス・ハン以来の重臣、耶律楚材(やりつそざい)を重用し、その献策に負うところが大きかった。

 最後に残った南宋の攻略は、第4代モンケ・ハン(憲宗)のときに始められた。彼は、漢地大総督に任命して漢地の統治をゆだねていた弟のフビライと力をあわせ、3方面から南宋に侵攻したが、合州(四川(しせん))の陣中で病没した。そこでフビライは一時停戦して急いで北帰し、開平(上都、ドロンノール)に彼の支持者だけを集め、独断でクリルタイを開き、大ハン位についた。すなわち、元の世祖(せいそ)である。中国風に年号をつくって中統元年(1260)とし、大都(北京(ペキン))を国都に定め、上都を副都にして夏季はここに避暑した。さらに1271年に国号を大元と称し、ここに彼は中国流の天子になったのである。これに対して本地の王族たちは、フビライ・ハンを承認せず、別にクリルタイをカラコルムに開いて、末弟アリク・ブハを大ハンに推戴(すいたい)した。そのため両者の間に相続争いが起こったが、経済力に勝るフビライ・ハンが勝利を収めた。

 当時、中央アジアには、チンギス・ハンの諸子分封に由来する4ハン国が存在していたが、元朝が成立すると、それぞれ分離独立していった。モンゴル帝国の分裂を決定的なものにしたのは、1268年以来30年にわたったハイドゥ(海都)の乱であった。元朝は、その後も宗主国の地位にはあったけれども、諸ハン国への支配権は及ばず、いよいよモンゴリアと中国とを支配する中国王朝の性格を強めることになった。一時中断した南宋征討は、周到な準備を経て1268年に再開され、76年正月には都の臨安(杭州(こうしゅう))を陥落させた。南宋はこのとき事実上滅亡した。なおも抵抗を続ける文天祥(ぶんてんしょう)らを追撃して、79年になって完全に南宋を征服した。その勢いに乗じて、高麗(こうらい)を服属させ、さらに、日本にも遠征軍を二度にわたり派遣(元寇(げんこう))したが、失敗した。また南方には安南、ビルマ(現ミャンマー)、ジャワに遠征して、ジャワを除く東南アジア諸国を従属国にした。

[竺沙雅章]

統治体制

異民族が中国に入って支配者となった場合、しだいに中国の高い文化に同化されることが多かったが、元朝は中国統治に際して、モンゴル人に政治的、社会的特権を与えて、支配者の地位を保証する体制をつくり、民族固有文化の保持を図った。これをモンゴル至上主義という。それを示すものが民族別の身分制度であって、モンゴル人、色目(しきもく)人(ウイグル人、イラン人など)、漢人(旧金領下の漢人、契丹(きったん)人など)、南人(旧南宋治下の住民)の4階級に分けられた。そのうちモンゴル人が政治の要職を独占してあらゆる特権を享受し、色目人はモンゴル人の不得意な財政などを担当して、やはり支配者の列に加えられた。数のうえでは圧倒的に多い漢人と南人とが被支配者の地位に置かれ、政治の中枢に参画できず、法律上でも著しい差別があった。

 中央政府は宋代に始まる君主独裁制を継承して、中書省(行政)、御史台(ぎょしだい)(監察、司法)、枢密(すうみつ)院(軍事)を分立し、各長官の合議で国務を決定した。それぞれの長官にはおおむねモンゴル人が任命され、それ以外で宰相になった者は元朝を通じてわずか3人にすぎなかった。地方行政では伝統的な州県制を継承するとともに、州のうえに路(ろ)を置き、都市には特別に市内行政を行う録事司(ろくじし)を設けた。畿内(きない)を意味する腹裏(ふくり)(河北、山西、山東)は中書省の直轄であったが、その他の地域には行中書省が設けられた。これは、初め中書省の出張所として臨時に置かれたものであるが、のちには皇帝に直属する常置の地方官庁となった。略して行省(こうしょう)といい、現在の行政区画「省」はこれに由来する。河南江北、陝西(せんせい)、四川、甘粛(かんしゅく)、遼陽(りょうよう)、江浙(こうせつ)、江西、湖広、雲南、嶺北(れいほく)の10行省が置かれ、それぞれ地方行政全般に広い権限をもった。もとより、各長官はモンゴル人を任命するのが原則であった。また路以下の官庁には、ダルガチ(達魯花赤)とよぶ独特の官が置かれた。これは断事官とも訳され、地方行政全般について決定権をもつ最高責任者であり、次官以下の漢人官僚を監視する目付役でもあった。

 元朝は伝統の官吏登用試験である科挙を廃止して、高級官僚の任用は世襲、恩蔭(おんいん)、推挙制などの門閥主義によった。門閥といっても貴族社会のそれとは異なり、朝廷と特別な関係をもっているかどうかが基準となった。それ以外に官吏になる道は胥吏(しょり)(事務員)から昇進することであったから、知識人たちは従来の士大夫(したいふ)的教養を捨てて、低級な仕事と軽蔑(けいべつ)してきた吏学を学んで胥吏となった。しかし科挙の復活を望む声が士大夫の間に強く、そこで仁宗の1314年、初めて実施されたが、合格者の数は少なく、官制上に大きな意義はもたなかった。

 人民はすべて職業によって軍、站(たん)、匠、民をはじめ、僧、道、儒、医などのいずれかの戸籍に登録され、それぞれの職能に応じて各種の負担が義務づけられていた。その大部分を占める民戸のうち、漢人は税糧(丁税もしくは地税)として粟米(ぞくまい)を納めるうえに、力役にかわる科差として糸料と包銀を納めた。南宋滅亡後、世祖は科差を江南にも施行しようとしたが成功せず、結局、この地域では、南宋に引き続いて両税法が行われた。

[竺沙雅章]

経済・社会

アジア、ヨーロッパにまたがる大帝国がつくられ、しかもジャムチ(駅站)が全国に設けられて交通の安全が保証されたので、東西の陸上交通は頻繁になり、遠隔地間の商業が著しく発展した。また杭州、泉州などを出口にして、南海、インド洋を通る海上交通も盛んになった。遠隔地商業の主役を務めたのは、色目人系のオルタク(斡脱(あつだつ))商人であった。オルタクとは、宮廷や諸王の営利事業を委託された特定の商人組合をいい、その商人たちは高利貸を業とし、支配階級と結び付いて、徴税の請負も行っていた。南北に分裂していた中国が統一されたので、国内商業もいっそう活発になり、江南を中心にして諸産業の発達、商業都市の勃興(ぼっこう)を促進することになった。江南の米や物資を輸送するために大運河が整備され、海岸に沿って北上する海運も始められた。

 元朝では銅銭はほとんど鋳造されず、紙幣(交鈔(こうしょう))の一本建てという、他の時代にはみられぬ独特の通貨政策が行われた。すなわち、元朝成立早々の中統元年(1260)に銀を準備金として「中統元宝交鈔(中統鈔)」を発行し、さらに至元24年(1287)「至元通行宝鈔(至元鈔)」を発行して、至元鈔1貫を中統鈔5貫にあてた。両鈔は民間における信用が高く、下落しながらも元末まで紙幣としての機能を果たした。もっとも、末期には乱発されて、交鈔50貫でも1斗の粟(ぞく)にかえられぬという悪性インフレを起こし、元朝滅亡の一因となった。

 モンゴルの王公貴族は、初めて漢地に侵入したときから広大な封地(投下)を与えられたが、南宋滅亡後は江南の肥沃(ひよく)な田土も彼らに分賜された。しかも土地所有の制限がなかったので、大地主、寺院、道観などの江南における土地兼併は宋代以上に激しかった。一方、世祖は建国すると、漢地に社制を施行した。これは、戦乱で荒廃した華北の農村を復興し、農業生産力を高め、農民生活の安定を図るために設けられた自治組織であって、50戸を1社とし、社ごとに農事に明るい年長者を社長に任命して、勧農と教化とにあたらせた。のちに江南にも拡大されたが、しだいに形式化して、勧農の実をあげることができなくなった。

[竺沙雅章]

衰亡

元朝の最盛期は世祖フビライ・ハンの治世35年の間であって、その後はしだいに衰亡の道をたどった。衰退の原因の一つは、帝位継承をめぐる宮廷の内紛であった。元朝になって以後も、クリルタイは形式上は残っており、後継者はこの会議で決定されたから、皇帝の死後には宗室、重臣の間でかならず相続争いが起こり、その結果、第3代武宗から第10代寧宗までの26年間で実に8人の皇帝がかわっている。そうした政情不安につけこんで、私利私欲をたくましゅうする権臣が現れて、政治の混乱に拍車をかけた。そのうえ歴代皇帝はチベット仏教(ラマ教)を狂信して、大規模な法会を行い、五台山などに盛んに寺塔を建立して乱費を重ね、国家経費の3分の2はチベット仏教への布施にあてられたとまでいわれる。当然、財政は赤字となり、その補填(ほてん)のために紙幣を乱発して経済界を混乱させた。さらに天災が相次いで大量の流民が発生し、モンゴル至上主義に対する民族的反感も急激に高まって、各地に反乱が続発した。その中心勢力を形成したのは、「弥勒仏(みろくぶつ)下生」を説く白蓮(びゃくれん)教徒であった。彼らは頭に紅(あか)い布を巻いたので「紅巾(こうきん)の賊」とよばれた。こうして華中地域に群雄が蜂起(ほうき)して大混乱となったが、そのなかから朱元璋(しゅげんしょう)が頭角を現し、群雄を次々に倒して、明(みん)朝を建て、北伐してついに元を滅ぼした(1368)。

[竺沙雅章]

文化

モンゴル支配は中国の伝統文化にも大きな影響を及ぼした。東西交通が盛んになった結果、西方文化が中国に伝えられたが、宗教ではイスラム教が漢人の間にも広がるようになり、在来のネストリウス派キリスト教に加えてカトリックも伝来し、モンテ・コルビノは世祖のとき大都にきて、初めてカトリック教会を建てた。モンゴル人自身はチベット仏教を信じ、これ以後、チベット仏教は彼らの宗教になった。また在来の宗教では、道教は、金代におこった全真教が華北に、伝統ある正一教(せいいちきょう)は華中を本拠にして栄え、仏教では禅宗の隆盛がみられた。それにひきかえ儒教には概して冷淡であった。モンゴル軍が初めて華北に入ってきたとき、一時的ではあったが、儒者たちは一般人民と区別なく捕らえられて奴隷にされた。かつては社会の指導者として尊敬を集めていた彼らの地位は低下して、当時、「一官、二吏、三僧、四道、五医、六工、七猟、八民、九儒、十丐(かい)」といわれ、儒者はわずかに丐すなわち乞食(こじき)よりは上であるとされた。一面、このように儒者、士大夫の地位が低下したことによって、従来なら高尚な士大夫文化の陰に隠れて表面に現れなかった下積みの文化が、この時代には台頭し、庶民を対象にした演劇や芸能、とくに雑劇とよばれる戯曲(元曲)が発達した。その作者たちは、作家組合(書会)のメンバーとか俳優であった者など、おおむね下層の知識人であった。また『西遊記』『水滸(すいこ)伝』などの口語小説の原型もこの時代につくられた。一方、江南が初めて異民族の支配下に置かれたことは、この地方の士大夫に大きな衝撃を与え、鄭思肖(ていししょう)のように元朝を憎悪し抵抗の姿勢を崩さなかった者、王応麟(おうおうりん)、馬端臨(ばたんりん)などのように、新王朝には仕官せずに、もっぱら学問に打ち込み著述に専念する者がいた。士大夫はこれまで政治家になって国を治めることを目的に学問してきたが、元朝では科挙が廃止され、官僚になるには胥吏から身をおこさねばならない。それを潔しとしない江南の士大夫たちは、政治を離れて詩文や書画の世界に没入した。その結果、蘇州(そしゅう)などにはひたすら文学、芸術を追求する新しい型の「文人」層が生まれ、明代に受け継がれて、自由奔放な市民文化が咲き乱れた。東西交通が活発になった結果、多くのイスラム商人やキリスト教宣教師たちが中国を訪れて、西方の天文学、暦学、地理学、医学などを伝え、それを吸収して、授時暦をつくった郭守敬(かくしゅけい)のような学者が現れた。またマルコ・ポーロらは東方事情をヨーロッパに伝え、それが地理上の発見の契機を与えた。

[竺沙雅章]

『『吉川幸次郎全集14 元雑劇研究』(1958・筑摩書房)』『愛宕松男著『世界の歴史11 アジアの征服王朝』(1969・河出書房新社)』『『岩波講座 世界歴史9』(1970・岩波書店)』『田村実造著『中国征服王朝の研究 中』(1971・東洋史研究会)』『安部健夫著『元代史の研究』(1972・創文社)』『前田直典著『元朝史研究』(1973・東京大学出版会)』『マルコ・ポーロ述、愛宕松男訳注『東方見聞録』(平凡社・東洋文庫)』『竺沙雅章著『征服王朝の時代』(講談社現代新書)』


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