倭文荘(読み)しとりのしょう

百科事典マイペディア 「倭文荘」の意味・わかりやすい解説

倭文荘【しとりのしょう】

美作国久米郡倭文郷(《和名抄》)に成立した京都賀茂別雷(かもわけいかずち)神社上賀茂神社)領の荘園。現岡山県津山市の倭文川流域一帯に比定される。成立年代や上賀茂社領となった経緯は不明だが,1184年には同社領であった。当初は神主領家職をもち,その一族預所(あずかりどころ)職に補任されていたが,14世紀以後はおおむね神主が一円知行権を相伝。公文(くもん)職は1360年には倭文安房守が知行していたが,同年将軍足利義詮により美作国守護赤松貞範に与えられ,1392年には地頭職もその子顕則に与えられた。応仁・文明の乱のあった15世紀後半は上賀茂社の年貢収納は途絶え勝ちで,1489年,年貢30貫文が届いたときには到来始めの祝宴が行われている。このころから守護赤松氏の領国支配が一応平穏に維持されるようになるとともに年貢収納も安定し,16世紀初めには少なくとも毎年平均66貫文が収納されている。1513年赤松氏の被官と思われる大河原真久は,先に360貫文で請け負った当荘の年貢を近年の荒・河成(かわなり)などの増大を理由に,半分の180貫文で請け負っている。さらに1521年には中村則久が180貫文で代官職を請け切っているが,赤松氏とその被官浦上村宗の対立に端を発した戦乱激化,年貢未進ないしは上納額の極端な低落状態が続いた。

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改訂新版 世界大百科事典 「倭文荘」の意味・わかりやすい解説

倭文荘 (しとりのしょう)

美作国久米郡倭文郷(現岡山県津山市,旧久米町)に成立した荘園。立荘年次・成立事情は不詳。1184年(寿永3)4月の源頼朝下文(案)が,当荘を含む賀茂別雷神社領42ヵ所に対する武士の狼藉停止を命じているのが初見。鎌倉後期には同社社務が領家・預所職一円知行権を相伝している。下って1448年(文安5)には,荘内の祥雲寺を〈領家〉と記す史料が現れるが,賀茂社との関係は不明。戦国期にも依然社務領として存続しているが,実態は同社氏人惣中が現地からの公用銭(年貢)収納権を有し,社務は〈分一〉としてその15%を受け取るにすぎなかった。当時,守護赤松氏の被官小倉,大河原氏とか,のちには宇喜多氏の家臣江原,蘆田氏らが代官職を請け負う体制の下で,初めは年間360貫文上納の定めであったが,1513年(永正10)以後は半減し,それさえ未進が常態化した。賀茂社の収納が確認できる最終年次は85年(天正13)である。
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