修猷館(読み)しゅうゆうかん

精選版 日本国語大辞典 「修猷館」の意味・読み・例文・類語

しゅうゆう‐かん シウイウクヮン【修猷館】

筑前福岡藩藩校天明四年(一七八四黒田斉隆が創設。はじめ竹田定良の修猷館と亀井南冥の甘棠館(かんとうかん)とに分かれていたが、甘棠館の焼失によりその生徒も収容し、和漢の学を教えた。廃藩のとき廃校となったが、校名は県立中学、新制高校へと受けつがれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「修猷館」の意味・わかりやすい解説

修猷館
しゅうゆうかん

筑前(ちくぜん)福岡藩黒田氏の藩学。1784年(天明4)、前年の藩命により士風刷新を目ざし、福岡城の正門外に設立。貝原益軒(えきけん)の学統を継ぐ竹田定良とその子孫門弟が朱子学を講じ、東学問稽古(けいこ)所・修猷館と称した。同時に開学した徂徠(そらい)学派の亀井魯(ろ)(南冥(なんめい))の西学問稽古所・甘棠館(かんとうかん)を、98年(寛政10)に併合し、学生200人が常時出席していた。藩士の11歳以上の子弟はかならず学ぶべきものとされ、漢学和学を授け、藩費をもって経営された。春秋両度、藩主が臨席して、学生の経書会読が行われた。庶民入学は許されなかった。維新後、1870年(明治3)洋学を加えるなどのことがあったが、同年中にすべて廃された。名称は、学制以降の県立中学校(現高等学校)に残る。

[木槻哲夫]

『文部省編・刊『日本教育史資料 3 巻8』(1889)』『笠井助治著『近世藩校の綜合的研究』(1960・吉川弘文館)』『石川謙著『日本学校史の研究』(1960・小学館)』『井上義巳著『福岡県の教育史』(『都道府県教育史』所収・1984・思文閣出版)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「修猷館」の意味・わかりやすい解説

修猷館
しゅうゆうかん

江戸時代の福岡藩藩校。藩主黒田斉隆が儒者竹田定良,亀井道載に命じて設立させた学問所で,天明3 (1783) 年に設立。竹田が東学問稽古所 (略して東学,のち修猷館) を,亀井が西学問稽古所 (略して西学,甘棠館) を創設し,それぞれ朱子学と徂徠学を教えた。寛政 10 (98) 年西学が火災にあったのを機会に合併され,以来藩学の中心となり,11歳以上の士族の子弟 (祠官,医生を志す者は特に平民の子も入所を許した) の入所を義務づけ,武芸をはじめ漢学,和学,のちには洋学をも教えた。明治4 (1871) 年廃藩置県により藩校は廃絶されたが,その名は 1885年修猷館中学校 (現在の修猷館高等学校) として引継がれ,今日にいたっている。

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百科事典マイペディア 「修猷館」の意味・わかりやすい解説

修猷館【しゅうゆうかん】

1783年設立の福岡藩の藩校。初め修猷館は朱子学を講ずる東学とされ,ほかに徂徠学を講ずる西学(甘棠(かんとう)館)があったが,1798年両者を合して発展。のちには漢学・和学のほか洋学も加えた。祠官・医生を志すものは庶民の子弟も入学を許可。1871年閉鎖。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「修猷館」の解説

修猷館
しゅうゆうかん

筑前国福岡藩の藩校。1784年(天明4)城下大名町に東学問所修猷館(館長竹田定良),唐人町に西学問所甘棠(かんとう)館(館長亀井南冥)が開設され,漢学・和学を教授。東は朱子学,西は徂徠(そらい)学を講じ,入学は自由選択とした。98年(寛政10)甘棠館が焼失し,学生を修猷館に収容した。同年武芸場を併設。1870年(明治3)洋学を科目に加えた。71年廃校。

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旺文社日本史事典 三訂版 「修猷館」の解説

修猷館
しゅうゆうかん

江戸時代,筑前福岡藩の藩校
1784年藩士教育のため,東西学問稽古場を設置し,東(修猷館)で朱子学を,西(甘棠 (かんとう) 館)で古文辞学を講じたが,'98年修猷館に吸収された。1871年廃藩置県で閉鎖。

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