信濃前司行長
しなののぜんじゆきなが
『徒然草(つれづれぐさ)』226段に『平家物語』の作者として記されている人物。後鳥羽院(ごとばいん)の時代に出家遁世(とんせい)、慈円(じえん)に養われて『平家物語』を書き、盲目法師生仏(しょうぶつ)に語らせたという。この人物は中山行隆(ゆきたか)の子で下野守(しもつけのかみ)であった行長とする説が有力であり、「信濃前司」は「下野前司」の誤りかとされている。父行隆の出世が『平家物語』にことさら記され(巻3)、葉室(はむろ)家といわれる彼の家系には、古来『平家物語』作者と伝承されてきた人物が多いからである。しかし、この説の当否を含め、作者と認定するにはなお多くの疑問を残す。
[日下 力]
『山田孝雄著『平家物語考』再版(1968・勉誠社)』▽『市古貞次編『平家物語研究事典』(1978・明治書院)』
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信濃前司行長
生年:生没年不詳
『徒然草』に『平家物語』の作者とみえる。漢詩文の達者であったが,朝廷の論議の番に召された際「七徳の舞」のふたつを忘れ,「五徳の冠者」と仇名されたのを憂えて出家,それを哀れに思った慈円に扶持され,やがて『平家物語』を作り琵琶法師に語らせたという。その実在は疑われていたが,平安末期の貴族藤原行隆の子としてみえる行長が有力。行長は源平の争乱期に八条院に仕えて蔵人となり,摂政九条兼実が八条院の女房三位局との間にもうけた良輔に仕えて下野守となった。漢詩文をよくして元久2(1205)年の「元久の詩歌合」にも漢詩を出している。良輔が亡くなって以後の消息は不明だが,同じ年に朝廷で番の論議があったことが知られている。<参考文献>五味文彦『平家物語 史と説話』
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信濃前司行長 しなののぜんじ-ゆきなが
?-? 鎌倉時代,「平家物語」の作者に擬せられる人物。
「徒然草(つれづれぐさ)」によれば,信濃の国司をつとめたことがあり,後鳥羽(ごとば)院の時代に出家。天台座主慈円(1155-1225)の庇護(ひご)のもとに「平家物語」をかき,琵琶(びわ)法師の生仏(しょうぶつ)にかたらせたという。下野守(しもつけのかみ)であった藤原行長と同一人物とする説もある。
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しなののぜんじ‐ゆきなが【信濃前司行長】
「平家物語」の作者に擬せられる人。中山行隆の子。「徒然草」によると、後鳥羽院の時、行長がこれを作り、生仏という盲目の琵琶法師に教えて語らせたという。
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デジタル大辞泉
「信濃前司行長」の意味・読み・例文・類語
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信濃前司行長
しなののぜんじゆきなが
生没年不詳
鎌倉時代の廷臣
『平家物語』の作者に擬せられている。
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しなののぜんじゆきなが【信濃前司行長】
《徒然草》226段に《平家物語》の作者として伝えられる。生没年不詳。後鳥羽院のとき,〈稽古の誉〉があったが,〈楽府の御論義の番にめされて,七徳の舞をふたつ忘れ〉〈五徳の冠者〉とあだ名されたのをつらく思い,学問を捨てて遁世したが,天台座主慈円に扶持され,のちに〈この行長入道,平家物語を作りて,生仏(しようぶつ)といひける盲目に教て語らせけり〉とある。行長に関して,《徒然草集説》(1701)では,中山行隆の子,下野守行長に比定されている。
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世界大百科事典内の信濃前司行長の言及
【平曲】より
…〈平家琵琶〉〈平家〉〈平語(へいご)〉ともいわれたが,最近は〈平曲〉の名称が一般的である。
[歴史]
起源には諸説あるが,なかでも有力視されているのは《徒然草》の記述で,それによると,後鳥羽院の時代に天台宗座主慈鎮(じちん)(慈円)の扶持を受けていた雅楽の名人,信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)が《平家物語》を作り,生仏(しようぶつ)という東国出身の盲人に教えて語らせたのが初めという。天台宗では慈覚大師(円仁)以後,民衆教化のために〈和讃(わさん)〉や〈講式〉といった宗教的な語り物を積極的に作り出していた。…
【平家物語】より
…現存史料によるかぎり,遅くとも1240年(仁治1)当時,《治承物語》とも称した6巻本が成立していたことは確かである。吉田兼好の《徒然草》226段によれば,九条家の出身で天台座主にも就任した慈円に扶持されていた遁世者信濃前司行長が,東国武士の生態にもくわしい盲人生仏(しようぶつ)の協力をえて《平家物語》を作り,彼に語らせ,以後,生仏の語り口を琵琶法師が伝えたという。信濃前司行長については実在が確認できないが,慈円の兄九条兼実の邸に,その家司として仕えた下野守行長がいたし,青蓮院門跡に入った慈円が,保元の乱以来の戦没者の霊を弔うために大懺法(だいせんぽう)院をおこし,その仏事に奉仕させる,もろもろの芸ある者を召しかかえたことが確かなので,《徒然草》の伝える説には,単なる伝承としてしりぞけられないものがあるだろう。…
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