保守党(イギリス)(読み)ほしゅとう(英語表記)The Conservative Party

日本大百科全書(ニッポニカ) 「保守党(イギリス)」の意味・わかりやすい解説

保守党(イギリス)
ほしゅとう
The Conservative Party

イギリスの保守政党。1世紀半にもわたるその歴史と、つねに政権を担いうる党としての強靭(きょうじん)さで、国内はもとより、外国をみてもほかに比類のない伝統ある統治政党。

[犬童一男]

党の成立

18世紀末葉から19世紀前葉のトーリー党後身。18世紀に長くホイッグ党一党体制が続き、トーリー党組織の連続性が確証されがたいので、通説では、17世紀名誉革命当時のトーリー党までさかのぼらない。トーリー党にかわる保守党が形成されるのは1830年以降である。この年に初めて近代政治的意味をもった保守conservativeということばが評論誌で使われ、それ以来、刷新されつつあったトーリー党が保守党とよばれるようになった。1832年の第一次選挙改革前に、のちに中央本部ができるまで党本部の役割をもった議員組織のカールトン・クラブが設けられた。第一次改革後には、全国各地に保守党協会やクラブといった地方組織が生まれた。そして1841年総選挙で初めて多数を制し、ロバート・ピールの下に政権の座に返り咲く。しかし1846年の穀物法撤廃で分裂し、ピール派Peelites(自由貿易派)が党を離れるが、その後、1867年に第二次選挙改革を行ったディズレーリの下に、大衆政党としての保守党が構築された。彼の下に1867年に保守党全国連合が創設され、1870年には中央本部も設立された。1868、1874~1880年に内閣を率いたディズレーリは、大衆の体制内化を図る近代的保守主義を唱えて諸改革をなし、かつ帝国主義とよばれる対外政策を推進した。彼の保守主義は、後世の保守党政治家に継承されてきた。

 1886年には、J・チェンバレンがアイルランド自治法案への反対から自由党を出て自由統一党をつくった。保守党はこの党と連合し、初めソールズベリー、のちにはバルフォアの下に1905年まで、1892~1895年を除く17年間政権を握った。この連合から保守党は統一党Unionistともよばれたが、自由統一党は1910年代に保守党に吸収される。

[犬童一男]

与党から野党へ

1906年総選挙での敗北後野党となるが、1914年に戦時連立内閣に入り、1922年ロイド・ジョージ連立内閣を倒し、保守党ボナ・ロー内閣を樹立。ボールドウィン内閣(1923、1924~1929年)がこれに続き、社会政策を重視した。1931年からの挙国一致内閣では、保守党が実権を握り、1935~1937年ボールドウィン第三次内閣、続いて1940年までN・チェンバレンNeville Chamberlain(1869―1940)内閣となる。第二次世界大戦中の戦時指導はおもに、同年5月首相となったW・チャーチルの戦時連立内閣によって行われた。この内閣は、「ゆりかごから墓場まで」という社会福祉制度の青写真を示したビバリッジ報告によって大々的な社会改革に着手し、教育改革も遂行したが、1945年7月総選挙で敗れ労働党に政権を渡した。

 労働党政権下の野党期に保守党は、目覚ましい党改革を行った。有能な党員が資金はなくても下院議員候補者になれる組織改革、福祉国家を認めた産業憲章の制定などである。こうして保守党は再生し、1951年チャーチルの下に政権の座に戻った。労働党は外交問題で分裂状態に陥り、1951年、1955年、1959年と総選挙で連敗した。比較的繁栄期でもあり、チャーチル引退後、政権はイーデン(1955~1957)、マクミラン(1957~1963)、ヒューム(1963~1965)と引き継がれた。その後6年の労働党政権を経て、1970年にヒース内閣が成立するが、労組対策と経済運営の困難さから、1974年に崩壊。その翌年サッチャー党首に選ばれ、1979年総選挙で保守党は政権の座に返り咲く。

[犬童一男]

サッチャー政権

サッチャー内閣はマネタリズム貨幣主義)の経済政策でインフレを抑制しただけでなく、イギリスを抜本的に立て直す課題を設定し、それに応じた。国営産業の民営化、行政改革、教育改革のほか、ユニオン・パワーを抑えこんだ労働組合改革などである。これらの政策によって1980年代にイギリスは大きく変わり、第二次世界大戦後の混合経済・福祉国家からアメリカ型の市場経済の国に近づいた。こうした変革に伴い、1980年代から大量の失業者と貧困家庭が生じたが、イギリス国民は確信に基づくサッチャリズムの政権を支え、保守党は1983年と1987年の総選挙でも圧勝した。

 しかし、首相のサッチャーは1990年11月に行われた保守党下院議員による党首選挙第1回投票の結果、党首の座から降り、第2回投票で蔵相メージャーが党首に選ばれた。保守党党首の選出方法は、1965年にヒースが党首に選ばれたとき以来、首脳たちの密室協議による方式から全議員が選ぶ方式になった。サッチャーが引退を余儀なくされたのは、彼女の政権末期におけるその統治のあり方が政権党内でも問題にされ、閣僚間ですら首相が信望をなくしていたことによる。外相ハウSir Geoffrey Howe(1926―2015)の下院での辞任演説(1990年11月)は、首相のEMU(経済通貨同盟)に消極的な政策などへの批判であった。また財産税(レートRates)にかわる住民税として導入を強行した人頭税(ポールタックスPoll Tax)とよばれたコミュニティ・チャージ(すべての国民に均等課税する税制)には世論が反対し、保守党内でも批判の声があがった。

[犬童一男]

メージャー政権

1990年の党首選の結果メージャーが首相となる。彼の課題は前政権末期に崩れかけた政権党の統一性を修復し、国民の支持を取り戻すことにあった。外相には閣僚歴豊かで外交通のハードDouglas Richard Hurd(1930― )を留任させ、コミュニティ・チャージ税制を見直すために元国防相のヘゼルタインMichael Ray Dibdin Heseltine(1933― )を環境相に任命した。外相ハードの下に、EC(ヨーロッパ共同体)外交は順応的なものとなり、ポール・タックスも環境相ヘゼルタインの下、見直されて自治体税(カウンシル・タックス)となった。こうして前政権末期の行き過ぎた政策は是正されたが、民営化は水道、電気にまで広げられ、教育、労働などの1980年代の改革も堅持された。このようにメージャー内閣はサッチャリズムの多くを受け継いだ政権であったが、その目標は1992年の総選挙で信任され保守党4連勝を達成することであった。そして1992年4月総選挙で、キノックNeil Gordon Kinnock(1942― )が率いる労働党を振り切ってこれを成し遂げ、保守党政権は13年を超える長期政権となった。

 だがこの政権は当初から多難であり、あまり人気のない政権でもあった。1992年9月イギリスの通貨ポンドの為替相場が投機によって落ち込み、ERM(為替相場メカニズム)からイタリアの通貨リラとともに外されたことで、経済運営で信頼されていた保守党は面目を失くした。また減税の党としての保守党のイメージも、付加価値税(VAT)の増税によって失われた。1979年には8%であったVATは1990年代に入りその税率を上げ、1993年には家庭用光熱費(電気・ガス)にまで8%、1995年から17.5%の課税を決めた。しかしこれには反対が強く後者は実施されなかった。イギリスはマーストリヒト条約によって成立したヨーロッパ連合(EU)の有力国ではあるが、通貨統合(単一通貨)や共通の労働時間や労使交渉などを規定した社会憲章Social Chapterへの参加を留保し、ヨーロッパ連合との関わりをめぐってメージャー政権の保守党は大きく分裂。このような内紛に加えてメージャー政権の下で保守党政治家たちの腐敗行為が相次いで新聞、テレビに取り上げられsleazy(低俗な)ということばが頻発した。そうした影響からメージャー内閣は人気を落としていった。

 1997年5月1日の任期満了の解散・総選挙で首相メージャーの保守党は、ブレアが党首として率いる労働党に完敗した。保守党の地盤であるイングランドでもアシュダウンPaddy Ashdown(1941―2018)が率いる自由民主党に敗れた。スコットランドウェールズは保守党空白区となり、得票率は前回を10%余り下回る31.4%、保持できた議席は659議席中、労働党に254議席の差をつけられ165議席に落ち込んだ。1832年総選挙での大敗後初めての惨敗である。政権はただちにブレア党首の労働党にわたり、メージャーは党首を辞任、党首選が行われ、過去200年の保守党の歴史では最年少の党首である36歳の前ウェールズ相W・ヘイグRt.Hon.William Jefferson Hague(1961― )が選出された。ヨーロッパ連合への関与をめぐる党内亀裂を埋め、老化して弱まった党組織を立て直すことが、ヘイグの第一の課題となった。2001年6月の総選挙で保守党は惨敗、ヘイグは引責で辞任し、同年9月イアン・ダンカンスミスIain Duncan Smith(1954― )が党首に選ばれた。しかし、イラクの大量破壊兵器情報を巡る操作疑惑などでブレア政権を追いこむことができず、また秘書手当不正受領疑惑が起きるなどで辞任を求める声が高まり、2003年10月党首信任投票が行われた。結果は不信任票が過半数を占め、ダンカンスミスは党首を辞任した。同年11月、元内相のマイケル・ハワードMichael Howard(1941― )が党首に選出された。

[犬童一男]

組織

もっとも基礎的な組織単位は選挙区結社であり、イングランドとウェールズに569、スコットランドに72ある。これらの選挙区組織代表約5000人が、毎年10月開催の全国連合年次大会に出席する。また選挙区組織は全国党本部と連係して下院議員候補者を選出し、党資金を集める。全国連合の年次大会やその執行機関は、労働党や自由党の場合と異なり政策形成の役割をもたない。重要問題について決定権をもつのは党首であり、中央本部、党調査局、党政治センターなどからの報告を受け、政策決定がなされる。陰の内閣(シャドー・キャビネット)の閣僚任命も党首によってなされる。党首は従来、長老指導者たちによって密室で選ばれていたが、1965年から1981年までの労働党のように、下院議員の投票で選出されるようになった。党員数は1953年にピークの280万から1978年に125万、1997年に40万と下がった。青年部、婦人部、労組部といった組織もあり、労働者階級に属する投票者の3人に1人がつねに保守党に投票してきたことが注目される。

[犬童一男]

『村川一郎著『イギリス保守党』(教育社・入門新書)』『R・T・マッケンジー著、早川崇・三沢潤生訳『英国の政党――保守党・労働党内の権力配置 上巻』(1965・有斐閣)』『M・サッチャー著、石塚雅彦訳『サッチャー回顧緑――ダウニング街の日々』上下普及版(1996・日本経済新聞社)』『梅川正美著『サッチャーと英国政治』(1997・成文堂)』『T. F. Lindsay, M. HarringtonConservative Party ; 1918-1970(1974, St Martins Press)』『S. Ludlam, Martin J. Smith (ed.)Contemporary British Conservatism(1996, St Martins Press)』『J. Critchley, M. HalcrowCollapse of Stout Party ; The Decline and Fall of the Tories(1997, Trafalgar Square)』

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