保土ヶ谷宿(読み)ほどがやじゆく

日本歴史地名大系 「保土ヶ谷宿」の解説

保土ヶ谷宿
ほどがやじゆく

東海道の宿場の一。保土ヶ谷町・岩間いわま町・神戸ごうど町・帷子かたびら町の四ヵ町からなり、保土ヶ谷宿組とも称する。神奈川宿(現神奈川区)まで一里九町、戸塚とづか宿(現戸塚区)まで二里九町。東海道は保土ヶ谷町と品濃しなの(現戸塚区)との境、境木さかいぎの地蔵堂から二番にばん坂・権太ごんた坂を下って宿に入り、西からもと町・茶屋ちやや町・保土ヶ谷町・上岩間かみいわま町・上神戸かみごうど町・帷子上かたびらかみ町・十八間じゆうはちけん町・下神戸町・帷子田かたびらた町・下岩間町を経て芝生しぼう(現西区)に至る。品濃村境から芝生村境までの長さ四五町五〇間、道幅四間―四間五尺。このうち宿内東西の土居の間一九町、道幅四間―四間三尺。宿内の東海道からは、南に金沢浦賀かねさわうらが道、北に八王子道が分れる。帷子町と神戸町との境を帷子川、ほぼ宿内東海道に沿って今井いまい川が流れて田圃を潤すほかは山畑が多く、猪や鹿の害を受けた。宿内反別は田一一四町四反余、畑二五八町三反余(享和三年一二月「宿明細帳」県史九)

慶長六年(一六〇一)一月、徳川家康は「ほとかや」宛伝馬朱印状と伝馬定書(県史九)を下し、保土ヶ谷宿を東海道の宿駅と定めた。伝馬定書によれば常備馬数三六、藤沢宿と神奈川宿の間の伝馬を受持ち、馬一匹につき居屋敷五〇坪の地子年貢の免除を受けた。また一駄は三〇貫と定められた。翌七年六月の駄賃定書(同書)によると保土ヶ谷―藤沢間荷物一駄四〇貫につき永楽銭一八文、保土ヶ谷―神奈川間は四文。寛永一七年(一六四〇)一一月の伝馬屋敷地子免許状(同書)により、宿常備人馬一〇〇人・一〇〇匹となり、保土ヶ谷宿に対して加増分六四匹、一匹につき一〇〇坪、屋敷二町一反三畝の地子免許状が与えられ、合計一万坪の年貢が免除された。天保(一八三〇―四四)頃の書上帳(保土ヶ谷区郷土史)によれば本陣苅部清兵衛家は持高三四石余、脇本陣水屋与右衛門家は持高六二石余、同藤屋四郎兵衛家は持高一石余、同大金子屋八郎右衛門家は持高一石余で、藤屋・大金子屋ともに飯盛女各二を抱えている。本陣・脇本陣いずれも保土ヶ谷町にあり、同町に茶屋本陣があった。問屋場は神戸町に一ヵ所あり、同町には高札場があるほか、毎年一二月二三日・二八日の両日には市が開かれた。

宝暦三年(一七五三)の保土ヶ谷四ヶ町村明細帳(保土ヶ谷区郷土史)では家数四二三、人数二千六五のうち男一千一〇二・女九六三。文化元年(一八〇四)の宿人別帳(県史九)では家数四四三、人数一千九二七のうち男一千一三・女九一四。「風土記稿」は家数四五三が町の西側に連なるという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報