俊寛(僧侶)(読み)しゅんかん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「俊寛(僧侶)」の意味・わかりやすい解説

俊寛(僧侶)
しゅんかん
(?―1179)

平安末期の僧侶(そうりょ)。村上源氏の大納言(だいなごん)雅俊(まさとし)の孫で、仁和寺法印(にんなじほういん)寛雅(かんが)の子。父が長らく法勝寺(ほっしょうじ)上座(じょうざ)の地位にあったところから、いち早く後白河(ごしらかわ)法皇信任を得て法勝寺執行(しゅぎょう)に任じられ、また法皇の近習(きんじゅう)となった。俊寛はかねて平清盛(きよもり)の専横を憎んでいたため、1177年(治承1)同じく院の近習であった藤原師光(もろみつ)(西光(さいこう))、藤原成親(なりちか)、平判官康頼(やすより)らとともに、平氏討伐の謀(はかりごと)を京都東山の鹿ヶ谷(ししがたに)山荘でめぐらした。しかしその企てに参加していた多田行綱(ただゆきつな)の密告によって謀議は失敗、彼らは全員捕らえられた。世にいう鹿ヶ谷事件がこれである。かくして俊寛は同年6月3日、藤原成経(なりつね)、平康頼とともに福原に送られ、ついで薩摩(さつま)国(鹿児島県)の鬼界ヶ島(きかいがしま)に流された。翌78年7月3日、中宮御産祈祷(きとう)のための大赦があって、成経、康頼の両名は帰京を許されたが、ひとり俊寛のみは同島に残留を命じられた。その後の彼の動向を知る史料は『平家物語』や『源平盛衰記』など小説的に脚色されたものが大半であるため、正確にはわからないが、流罪生活3年にして同島で没したことは確かであろう。享年37歳という。俊寛の流罪生活のありさまは各種の能に脚色され、浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎(かぶき)にも取り入れられた。近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)作の浄瑠璃『平家女護島(にょごのしま)』はその代表的作品である。

[鈴木国弘]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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