供栖村(読み)ともすみむら

日本歴史地名大系 「供栖村」の解説

供栖村
ともすみむら

[現在地名]有川友住郷ともすみごう

赤尾あかお村の東に位置し、相崎あいざき瀬戸に臨む。北にかしらヶ島、ロクロ島があり、前者は当村の枝村として扱われる場合がある。江戸時代は福江藩領で、有川掛に属し、友住とも記される。正保四年(一六四七)福江領内で「有川供栖」など四ヵ所に遠見番所が増設され(華夷要言)、明暦三年(一六五七)には頭番の安永惣兵衛のほか足軽八人が遠見番に任じられている(「公譜別録」「明暦三年日記」五島編年史)。寛文年間(一六六一―七三)の村役人に立木与四兵衛、安永年間(一七七二―八一)に船見(当見番)の安永惣兵衛がいたほか、足軽八人、嘉永年間(一八四八―五四)に立木勝右衛門らがみえる(「江崎家旧記帳」江崎家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報