佐賀(県)(読み)さが

日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐賀(県)」の意味・わかりやすい解説

佐賀(県)
さが

九州地方の北西部にある県。北東部と東部は福岡県に、西部は長崎県に接する。北は玄界灘(げんかいなだ)(玄海)、南は有明海(ありあけかい)に面し、この両海域に挟まれた、広義の肥前(ひぜん)半島の付け根の部分にあたる。佐賀県庁の数理位置は北緯33度15分、東経130度18分。「南国土佐(とさ)」の高知県庁の北緯33度33分よりわずかに南にある。このような数理位置より、朝鮮半島や長崎などに近いといった関係位置のほうが、本県域の歴史のうえに重要な意味をもった。県都佐賀市から首都東京までの鉄道距離は約1230キロメートル。それに対し、青木月斗(げっと)の「太閤(たいこう)が睨(にら)みし海の霞哉(かすみかな)」の句碑が立つ名護屋(なごや)城跡から、壱岐(いき)・対馬(つしま)を経て朝鮮半島南端のプサン(釜山(ふざん))に至る直線距離はわずかに200キロメートル足らずである。このような対外的近接性は、国内支配中心の畿内(きない)・関東に対する遠隔性とともに、本県域の文化・経済にみる先進性・辺地性の二重構造の形成につながった。本県は2020年(令和2)時点で、面積は2440.69平方キロメートルと全国42位、人口は81万1442人で41位と、福岡・長崎両県に挟まれた文字どおり小県である。県下最大の県都佐賀市にしても人口23万3301(2020)、広域中心都市の福岡市や異国情緒豊かな長崎市の都市規模に比すべくもない。JR特急の始発・終着駅とも県下にはなく、通過地域としての回廊的性格を示してきた。しかし、有田(ありた)の窯芸文化、佐賀藩の洋式工業ほか、外来文化の受容といった面では先進的な役割を果たした。また、唐津(からつ)炭田、米作の「佐賀段階」、有明海のノリ養殖、玄海原子力発電所など、各方面で注目されてきた。人口動態をみると、第1回国勢調査の1920年(大正9)に67万3895、1940年(昭和15)が70万1517、第二次世界大戦後の1947年(昭和22)には海外引揚げや復員などで91万7797に上った。さらに炭鉱開発も進んで1955年には97万3749のピークを示した。1956年以後は相次ぐ炭鉱閉山などで人口減が続き、1970年には83万8442まで減少した。1973年から増加に転じ、地域開発も進んで1985年には88万0018を数えた。1990年(平成2)には87万7851と人口減をみたが、1995年には88万4316と増加を示した。2000年は87万6654、2005年は86万6369、2010年84万9788、2015年83万2832、2020年81万1442で、ふたたび減少した。1995~2000年には県下49市町村のうち、工業・住宅開発などが目だつ県東部市町村を中心に14市町村で人口増をみた。なかでも、福岡県に近い三養基(みやき)郡基山(きやま)町では住宅団地の造成が進み、1990~1995年には実に県下最高の増加率27.6%を示したが、2000~2005年、2005~2010年は若干ながら減少に転じている。1990~1995年の減少率では11.6%の富士町(現、佐賀市富士町地区)および玄海町の9.7%、肥前町(現、唐津市肥前町地区)の8.8%減などが注目をひいた。

 2020年10月時点で、10市6郡10町からなる。

[川崎 茂]

自然

地形

県域は玄界灘斜面と有明海斜面に大きく分けられる。両斜面の分水界は脊振山地西部の福岡県境羽金(はがね)山(900メートル)付近から南下、天山(てんざん)(1046メートル)・八幡(はちまん)岳(764メートル)付近などを経て長崎県境神六(じんろく)山(447メートル)の南東方に至る。県東部は分水界が脊振山地の福岡県境に及び、だいたい筑後川(ちくごがわ)・嘉瀬川(かせがわ)水系など有明海斜面にある。県西部では玉島川(たましまがわ)・松浦川(まつうらがわ)・有田川水系や東松浦半島などの玄界灘斜面と、六角川(ろっかくがわ)・塩田川(しおたがわ)・鹿島(かしま)川水系などの有明海斜面とに分かれる。

 県東部は北の脊振山地と南の佐賀平野に大別される。脊振山地は筑紫(つくし)山地西部の地塊山地で、脊振山(1055メートル)を主峰とする地塁状の主脈が福岡県境を東西に連なる。その南に隆起準平原をなす高原状の丘陵が広がり、南西端で天山、彦岳(ひこだけ)(845メートル)の山系が直接佐賀平野に臨む。脊振山地は県境や南端部で部分的に蛇紋岩や変成岩類をみるが、大部分は花崗(かこう)岩類で、嘉瀬川など諸水系の河谷が樹枝状に発達し、小山間盆地や峡谷を各地に形成する。脊振山地の南には、山麓(さんろく)部の洪積台地を経て、低平な佐賀平野が有明海に向けて広がる。だいたい標高5メートル等高線以北に旧期沖積層(低位段丘礫(れき)層)が分布。それ以南は新期沖積層で、溝渠(こうきょ)(クリーク)網や、佐賀江(さがえ)、八田江(はったえ)、本庄江(ほんじょうえ)など海水逆流の江湖(えご)が平野の景観を特色づける。有明海湾奥部の潮汐(ちょうせき)干満差は日本一で、六角川河口付近で大潮差は約6メートルにも達する。沿岸には広大な干拓地や干潟が広がり、厚い有明粘土層地帯をなす。六角川下流以南は白石平野(しろいしへいや)と称し、俗に佐賀平野と区別する。

 県西部には、松浦杵島(きしま)丘陵地や東松浦溶岩台地、多良(たら)火山地など分布。脊振山地の西には、厳木(きゅうらぎ)川から牛津川(うしづがわ)上流域に及ぶ北西―南東方向の断層を境に、第三紀層を主とした松浦杵島丘陵地が広がる。ほうぼうで玄武岩や安山岩類などが第三紀層を貫き、八幡岳や神六山などの峰を形成。また多久(たく)・武雄(たけお)・嬉野(うれしの)など諸盆地が両斜面各所に分布する。第三紀層域ではかつて唐津炭田など炭鉱開発をみた。唐津湾奥には松浦川下流平野や虹の松原(にじのまつばら)砂丘などが分布、その北西方東松浦半島には、玄武岩類の溶岩台地、俗称上場台地(うわばだいち)が広がる。台地末端はリアス海岸の溺れ谷(おぼれだに)を形成、七ツ釜(ななつがま)など玄武岩の柱状節理の海食崖(かいしょくがい)もみる。玄界灘には、馬渡島(まだらしま)、加唐島(かからじま)、加部島(かべしま)、小川島(おがわしま)、神集島(かしわじま)、大島、高島など玄武岩のかぶさる卓状の島々が浮かぶ。伊万里(いまり)湾から有田川断層谷西方の長崎県境には、国見(くにみ)山(776メートル)、八天(はってん)岳(707メートル)など玄武岩類の西(にし)岳山地が南北に連なる。その北方国見岳(496メートル)北の人形石(にんぎょういし)山(427メートル)付近など第三紀層域には有名な地すべり地帯がある。南部有明海斜面の長崎県境には多良火山地があり、県下最高峰の経ヶ岳(きょうがだけ)(1076メートル)や、多良岳(996メートル)など数峰からなる複雑な火山地形を示し、放射谷の発達をみる。その裾野(すその)は、北から東にかけて有明海岸にまで広がる。この火山地に源を発し、有明海に注ぐ感潮河川の塩田川や鹿島川は水害常襲地の歴史をもつ。蛇行しながら有明海最奥部に流入する六角川は、満潮時、潮汐の影響が河口から20キロメートル以上の武雄盆地東部に及び、かつては塩田川同様に水運と水害の相反する様相を示した。その下流南方、杵島山の東に広がる白石平野は、干害に悩み、深井戸灌漑(かんがい)で地盤沈下をみた。

 県内の自然公園には、変化に富んだ海岸線と奇勝の海食地形(七ツ釜)で知られる玄海国定公園のほか、黒髪山、多良岳、天山、八幡岳、脊振北山(ほくざん)、川上金立(かわかみきんりゅう)の6県立自然公園がある。また、樫原湿原は県の「自然環境保全地域」となっている。

[川崎 茂]

気候

県域の大部は温暖で、各地に県木クスノキの巨木が茂り、吉野ヶ里(よしのがり)町の千石(せんごく)山サザンカと玄界灘側にある唐津市肥前町の高串(たかくし)アコウは、ともに自生北限地帯をなし、国の天然記念物である。玄界灘側は、冬季北西季節風が強いが、積雪も少なく、対馬暖流の影響で比較的温和な海洋性的気候を示す。有明海側は、夏季多雨、冬季寡雨の太平洋型の気候であるが、海陸風の影響もあまりなく内陸性的で、とくに夏は高温でむし暑い米どころの風土をなす。なお、県内の低温地域は脊振山地などで、分水界に近い佐賀市三瀬(みつせ)村地区では1月の最低気温極値が零下10℃を超した年もある。年降水量は山地部で2000ミリメートル以上にも及ぶが、有明海湾奥の六角川河口付近平野部や東松浦半島北部では、1800ミリメートル以下の比較的雨の少ない地域を形成する。白石平野や上場台地は、雨が少なく灌漑水利の条件にも恵まれず、夏には干魃(かんばつ)に悩まされてきた。台風期よりむしろ梅雨期の多雨が目だち、梅雨前線の停滞でしばしば集中豪雨にみまわれる。県西部に地すべり地帯があり、また有明海沿岸では台風の襲来などで高潮災害を経験した。春に大陸黄砂(こうさ)の飛来をみる。

[川崎 茂]

歴史

先史・古代

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の末盧(まつろ)国は今日の唐津地方とされ、神功皇后(じんぐうこうごう)説話、松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説など、玄界灘側と朝鮮・中国大陸との関係位置を物語るものは多い。有明海斜面でも、大宰府(だざいふ)に近い基肄(きい)城や、佐賀市北部の帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごいし)、杵島山西側のおつぼ山神籠石などは外寇(がいこう)防備の朝鮮式山城(やまじろ)とされる。みやき町板部(いたべ)の物部神社(もののべじんじゃ)は、新羅(しらぎ)遠征の将で聖徳太子の弟である来目皇子(くめのみこ)ゆかりの神社という。みやき町綾部(あやべ)も、渡来人が兵器製造したという漢部(あやべ)郷の遺称地とされ、朝鮮方面との関係を伝える。

 旧石器時代の多久(たく)市茶園原(ちゃえんばる)遺跡や、縄文時代貯蔵穴の有田町坂の下(さかのした)遺跡ほか、県内各地に先史遺跡が分布する。唐津市には、大陸の農耕文化受容を知るうえに貴重な菜畑遺跡(なばたけいせき)や宇木汲田(うきくんでん)遺跡、さらに葉山尻支石墓(はやまじりしせきぼ)など、縄文から弥生(やよい)時代にかけての著名な遺跡がある。また末盧国の唐津地方は、唐津市の谷口古墳(たにぐちこふん)、横田下(よこたしも)古墳や、唐津市島田塚などの代表的な古墳をもち、佐賀平野北部山麓一帯とともに二大文化圏を形成していた。佐賀平野北麓には、吉野ヶ里町の三津永田遺跡(みつながたいせき)や二塚山遺跡(ふたつかやまいせき)など弥生時代の有力な集落墓地がみられた。とくに吉野ヶ里遺跡は弥生時代の大規模な環濠集落として全国的に脚光を浴び、1991年(平成3)に国の特別史跡となった。さらに鳥栖(とす)市田代太田(たしろおおた)古墳、神埼(かんざき)市伊勢塚(いせづか)、佐賀市の西隈(にしくま)古墳、銚子塚(ちょうしづか)、船塚(ふなづか)など多くの代表的古墳群が分布する。佐賀市丸山遺跡は縄文~古墳時代の複合遺跡で知られる。なお佐賀平野部に、弥生時代集落跡の小城(おぎ)市土生(はぶ)遺跡や、弥生時代貝塚群の神埼(かんざき)市詫田貝塚(たくたかいづか)などがある。肥前国(ひぜんのくに)の国府は佐賀市大和町(やまとちょう)地区の平坦(へいたん)部に存在したと推定され、条里制遺構もその周辺で広く認められた。

[川崎 茂]

中世・近世

神埼荘(かんざきのしょう)は肥前最大の荘園で、佐賀平野部から脊振山地に及ぶ広大な院御領(いんのごりょう)であった。有明海の臨海部に河副荘(かわそえのしょう)が成立し、13世紀後期には少なくとも干拓による干潟荒野の開発がみられたと思われる。玄界灘側には広大な松浦荘の成立をみたが、東松浦半島沿岸部はまた中世、松浦党諸氏の根拠地であった。松浦党は朝鮮や中国沿海に侵寇(しんこう)した倭寇(わこう)で知られるが、一方元寇での活躍も伝えられている。

 戦国時代には脊振山地山内(さんない)の神代(くましろ)氏などに対し、龍造寺氏(りゅうぞうじうじ)が佐賀平野に台頭し四囲に勢力を張った。のちに龍造寺氏の重臣鍋島氏(なべしまうじ)が継承し、近世佐賀藩の成立をみた。豊臣(とよとみ)秀吉は、朝鮮侵寇への最前線基地として東松浦半島北端に名護屋城(なごやじょう)を築いた。のちに秀吉の側近寺沢広高(てらざわひろたか)が初代唐津藩主となり、1608年(慶長13)松浦川河口の満島(まんとう)山に唐津城を完成。鍋島氏も同年典型的な平城である佐賀城の惣普請(そうふしん)を実施し、城下町の建設にあたった。その後、鍋島氏が明治維新まで連綿と佐賀藩を支配した。約35万7000石の佐賀藩領は、本藩のほかに、小城(おぎ)・蓮池(はすのいけ)・鹿島(かしま)の3支藩や親類、親類同格など多くの自治領を含み、複雑な構造をもった。唐津藩は譜代(ふだい)大名による転封が相次ぎ、江戸後期には名目6万石で、佐賀藩とは異なった様相を示した。なお東部の現鳥栖市・基山(きやま)町域には対馬藩田代(たしろ)領が形成され、また江戸後期には幕領が佐賀・唐津両藩に挟まれた松浦郡域にみられた。ケンペルやシーボルトも江戸参府で東上した長崎街道が、南西の嬉野(うれしの)宿から佐賀城下を経て北東の田代宿方面へと抜け、多くの宿駅の発達をみたが、これを軸に各地への往還も通じた。有明海側の感潮河川に臨む牛津、高橋、塩田津などは、長崎街道など主要往還と結ぶ河港としてにぎわった。干拓などの土地開発も進み、佐賀藩では1783年(天明3)設置の六府方(ろっぷがた)のなかに干拓事業担当の搦方(からみかた)を設け、有明海の干拓を推進した。搦とは干潮時に土を寄せ、突き固めて潮止めをする干拓法である。田代領の売薬やハゼの栽培は、唐津藩の捕鯨、採炭、紙漉(かみす)きなどと同様に、藩財政に重要な役割を果たした。

 佐賀藩では皿山(さらやま)代官統轄の有田窯業が注目される。16世紀末の、秀吉による文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役は、日本の窯芸文化のうえに重要な影響を与えた。鍋島直茂(なおしげ)が連れ帰った李参平(りさんぺい)など李朝(りちょう)系陶工たちが、17世紀初期、流紋岩類からなる有田郷の地で、日本で最初に磁器を創成したと伝える。酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)一族が磁胎への赤絵付(あかえつけ)法を完成したのは1640年代とされる。17世紀後半から18世紀にかけて有田皿山の黄金時代が現出され、長崎出島(でじま)を介して、色絵(いろえ)磁器類などの古伊万里(こいまり)が東南アジアやヨーロッパに大量に持ち出された。また伊万里津からは国内各地にも積み出されたため、有田焼は「伊万里焼」の名でよばれるようになった。とくに海外交易によりヨーロッパの窯芸に大きな影響を与えたことは特筆に値する。

[川崎 茂]

近・現代

明治維新には、佐賀藩は「薩長土肥(さっちょうどひ)」の一角を占め、新政府には大木喬任(おおきたかとう)が文部卿(きょう)、江藤新平(えとうしんぺい)が司法卿、副島種臣(そえじまたねおみ)が外務卿の任につき、大隈重信(おおくましげのぶ)も参議として参加した。しかし一方、佐賀では不平士族による反政府運動が醸成され、征韓党が征韓論に破れて野(や)に下った江藤新平を、憂国(ゆうこく)党が島義勇(しまよしたけ)を担ぐに至り、1874年(明治7)2月には、ついに佐賀の乱として爆発した。反政府軍は敗北に帰し、江藤・島らは処刑された。なお、1871年9月には、廃藩置県で誕生した旧佐賀本藩領の佐賀県が、旧対馬藩の厳原(いづはら)県と合併して県庁を伊万里に移し、伊万里県の成立をみた。同年11月には小城・蓮池・鹿島・唐津の諸県も伊万里県に統合されたが、翌年5月には佐賀県と改称し、県庁も伊万里から佐賀に移された。対馬は同年8月長崎県に編入。この佐賀県も、佐賀の乱翌々年の1876年4月には筑後(ちくご)の三潴(みずま)県に合併され、さらに同年8月長崎県の管轄に移された。1883年5月、長崎県から佐賀県が分離独立した。1889年の市制・町村制施行で1市5町130村。1983年(昭和58)5月、佐賀県政100年を迎えた。

 この間、1892年(明治25)の選挙大干渉や、1918年(大正7)の炭鉱争議などでは、軍隊まで出動の激しい騒乱事件を体験した。第二次世界大戦後も、豪雨大災害、町村合併、石川達三の小説『人間の壁』のモデルとなった佐教組事件、杵島炭鉱長期スト、炭鉱閉山、さらに玄海原発問題など激動期が続いた。一方、1935年(昭和10)前後には、米作の「佐賀段階」を実現し、戦後も1965、1966年(昭和40、41)には米作日本一になるなど、新佐賀段階米づくり運動が展開された。有明海のノリ養殖、ミカン栽培も盛んとなった。しかし、炭鉱閉山とともに、米の生産調整などで、県当局は鳥栖・伊万里地区や旧産炭地などの工業開発に積極的に動くに至った。いまや久留米(くるめ)・鳥栖テクノポリス構想ほか、技術立県への道を目ざす。また、「21世紀県民の森」の建設、県立美術館の開館など、各種の県政100年記念事業を進め、文化立県をも高く掲げてきた。県立の九州陶磁文化館・名護屋城博物館などの文化施設も相次いで登場し、また吉野ヶ里遺跡もその保存活用に向け、国営吉野ヶ里歴史公園としての整備が進められている。

[川崎 茂]

産業

幕末・維新期、松浦川筋の唐津炭田は日本最大の産炭地であった。さらに幕末期の佐賀藩は、日本で最初に洋式反射炉の構築に成功するなど、洋式工業導入のうえに先駆的な役割を果たした。しかしこれらも、明治以降の日本工業化の流れに対して、本県の優位性を形成するまでに至らず、明治後の本県はやはり農業県として広く知られてきた。

[川崎 茂]

農林業

県全体では水田が耕地面積の79%を占めるが、とくに佐賀平野部は、水田率が90%以上に及ぶ山のない地域がいくつもあり、典型的な米どころをなす。昭和10年代、経営規模大にして単位面積当りの米収量大という「佐賀段階」を実現し、日本米作農業の発展モデルとして脚光を浴びた。戦後の1965、1966年(昭和40、41)にも連続して単位面積当りの収量日本一を達成し、「新佐賀段階」と注目された。しかし、農業産出額における米のシェアは、1975年の約51%から2003年(平成15)には約32%に低下した。2003年においては、二条オオムギなどの麦類のシェアが約5%であるのに対し、特産のタマネギ、蓮根(れんこん)のほかに、レタス、アスパラガス、イチゴなどの生産が目だつ野菜類は、約24%と米に次ぐ第2位のシェアを示した。本県主要農産物のミカンは、2004年全国で生産量第6位ながら減少傾向を示した。ナシなどの伸びをみたものの、果樹類全体のシェアは、1979年には野菜類に追い越され、米、畜産、野菜類に次いで第4位となった。2003年時点で、米、野菜類に次ぐ畜産は、鶏、肉用牛、豚、乳用牛などで、畜産農家数は減少するも、1戸当りの飼養数は増加している。なお主要な工芸作物に「嬉野茶」や葉タバコ、イグサなどがある。機械化や圃場(ほじょう)整備など農業の近代化が進む。

 2000年における、樹林地面積に対する人工林率72%、民有林森林面積1ヘクタール当りの林道密度12メートルはともに全国のトップレベル。しかし、素材生産量はわずか14万2000立方メートル程度(2005)で漸減傾向を示す。林野面積の70%有余が私有林である。

[川崎 茂]

水産業

1960年代に入り、有明海のノリ養殖が急速に伸びた。1965年ころ以降は、海面養殖が、玄界灘などの漁船漁業にとってかわり、本県水産業の主役となった。2004年総生産額の84%を海面養殖が占めた。海面養殖生産額の90%近くがノリで、ノリ生産額のほとんどを有明海が占めた。2004年のノリ生産量約18億3000万枚、生産額203億8100万円はともに全国第1位。玄界灘では真珠やブリ・タイ類などの養殖をみる。漁船漁業では玄界灘の巻網・揚繰(あぐり)網などによるサバ・アジ・イワシなどの漁獲が目だつ。有明海ではモガイ類やタイラギなどの貝類を産し、竹崎(たけざき)のガザミなども知られる。

[川崎 茂]

鉱工業

明治後期以降、三菱(みつびし)ほかの外来大資本が県内諸炭鉱に進出し、さらに地元資本高取(たかとり)の杵島炭鉱が台頭するなど、石炭産業は米作に次ぐ県下の重要産業となった。1960年には年間306万トン余を産し、47の炭鉱を数えたが、エネルギー革命で1972年にはすべて姿を消した。唐津炭田の石炭利用を目的に1967年操業開始の唐津発電所も重油に切り替えられた。なお1975年には、玄海原子力発電所が玄海町値賀崎(ちかざき)にて九州で最初に運転を開始した。玄海原電は1、2号機に続いて、3号機が1994年3月に運転を開始し、1995年度末には原子力が発生電力量の98%余りを占めるに至ったが、さらに4号機が1997年度に運転開始した。2004年度の県内発生電力量は263億5800万キロワット時で、うち原子力が約99%(1981年度は約73%)を占める。また、約75%を福岡県など県外に送電した。

 1960年代後半以降、米作農業の限界、石炭産業の崩壊を前に、県当局は農工併進を打ち出した。伊万里湾の臨海工業開発、鳥栖など県東部内陸工業地域の開発、さらに産炭地振興などを練り上げ、積極的に工場誘致に乗り出した。県東部では、新宝満(しんほうまん)川からの県東部工業用水道が建設され、鳥栖の轟木(とどろき)工業団地をはじめ、上峰(かみみね)・吉野ヶ里の2町にまたがる佐賀東部中核工業団地などが造成されて企業進出をみた。伊万里湾岸でも、久原(くばら)木工団地や名村(なむら)造船の進出をみた七ツ島工業団地など臨海工業開発が進められた。しかし、1995年の年間製造品出荷額等約1兆5327億円は全国の約0.5%で40位、九州8県中6位と本県の占める地位は低い。2004年の製造品出荷額等は1兆5259億円で、全国の約0.5%(第39位)でほとんど変わらない。2004年の内訳は、食料品18.1%、一般機械12.2%、電気機器11.3%が上位で、窯業・土石も3.5%を占めているのが特徴的である。

 窯業は本県の代表的な伝統工業で、陶磁器は売薬とともに、明治末から大正期を通じ県内工産物中産額で上位を占めていた。有田は日本における白磁器と赤絵の発祥の地とされ、江戸期の焼物は伊万里焼、古伊万里としてその名声を内外に馳(は)せた。明治以後、大量生産などへの対応も不十分で、愛知・岐阜両県に出荷額で大差をつけられ、1994年の県陶磁器出荷額は全国の4.1%にすぎない。2003年では、陶磁器製和飲食器で全国第2位、同洋飲食器で第5位となっている。県内各地の伝統的な窯元などで台所用品や美術工芸品などを産するが、タイルや電気用品の製造から、さらにファインセラミックスにも積極的に取り組んでいる。伊万里に窯業団地、有田に卸売団地などもでき、生産と流通の近代化が進む。県東部旧田代領などの売薬も、大正中期以降延膏薬(のべこうやく)販売などで行商圏を全国的に拡大し、近代化を進めた。今日、久光製薬(ひさみつせいやく)など近代的企業の立地をみる。久留米・鳥栖テクノポリス指定などを頂点に、県当局は技術立県の道を目ざし、諸策を展開中である。

[川崎 茂]

交通

江戸時代には、長崎街道などの街道交通と河川交通によって内陸交通網は形成されていた。明治以後はそれらにかわって鉄道が主役となり、まず九州鉄道の鳥栖―佐賀―武雄―早岐(はいき)コースが1898年(明治31)全線開通した。以来、国鉄(今日のJR)の長崎本線、佐世保線(させぼせん)、唐津線、松浦線、筑肥線(ちくひせん)、佐賀線、甘木(あまぎ)線などからなる県内鉄道網が漸次形成され、交通輸送の主役を演じた。しかし、炭鉱閉山に続いて、モータリゼーションが急速に進み、鉄道輸送の地位は低下した。炭鉱開発で1912年(明治45)に敷設された岸岳(きしだけ)線は1971年(昭和46)廃止に、昇降式鉄橋で筑後川を渡る佐賀線も1982年国鉄の廃止対象路線となり、1987年3月に廃止された。1987年4月からJR九州の発足をみたが、松浦線は1988年4月から松浦鉄道(株)、甘木線は1986年4月から甘木鉄道(株)として第三セクターによる再スタートとなった。一方、長崎本線や筑肥線の電化が進み、佐賀駅や唐津駅は高架駅として一新された。1983年に筑肥線姪浜(めいのはま)―博多(はかた)駅間の福岡市営地下鉄乗り入れも実現した。福岡・長崎両県に挟まれた県内には、特急の始発・終着駅は皆無である。2004年度(平成16、( )内は1995年度)の県内鉄道路線別乗降客数をみると、県都の佐賀駅がある長崎本線が全体の43.4%(41.0)を占め、ついで福岡市通勤圏の鹿児島本線が26.2%(22.4)と続き、ほかは唐津線12.8%(14.0)、佐世保線6.9%(8.0)、松浦鉄道4.9%(6.4)、筑肥線4.7%(5.8)、甘木鉄道1.0%(1.4)である。2011年3月には、九州新幹線鹿児島ルートの全線開通に伴い、新鳥栖駅が開業した。

 モータリゼーションの進展に伴い、県内各所で道路整備やバイパス建設、架橋などが相次いでみられた。県東端には、南北に国道3号と九州縦貫自動車道が通じ、鳥栖から佐賀―武雄―嬉野を経て長崎へと国道34号が東西に県内を横断する。鳥栖インターチェンジで九州縦貫自動車道と交差する九州横断自動車道(長崎自動車道と大分自動車道)の県内部分が1990年(平成2)に完成し、本県も本格的に高速道時代に入った。交通渋滞で悩んだ県都佐賀市街でも南と北にバイパスができた。また筑後川河口の川副(かわそえ)大橋が1983年に完成し、有明海沿岸道路の整備も進む。西九州自動車道も整備が進められている。東松浦半島沿岸の国道204号コースには、名護屋大橋や外津(ほかわづ)橋ができ、さらに対岸の長崎県福島とは福島大橋で結ぶ。西の佐世保市との間に国見トンネルが、北の福岡市と結ぶ国道263号の三瀬峠にも1986年に三瀬トンネルが開通した。同じく福岡市と結ぶ国道385号の東脊振トンネルが2005年に開通している。外航をもつ海港は伊万里港と唐津港だけである。この両港は、かつて六角川河口の住ノ江港(すみのえこう)とともに石炭積出し港としてにぎわったが、今日は工業港など新しい港湾機能を求める。唐津東港と、壱岐の印通寺(いんどうじ)との間にはフェリーボートが通う。なお、九州8県で空港のない唯一の県であったが、有明海沿岸の佐賀市川副町地区南端の干拓地に、念願の佐賀空港が1998年開港した。

[川崎 茂]

社会・文化

教育文化

山本常朝(つねとも)口述、1716年(享保1)成立の武士道書『葉隠(はがくれ)』は、佐賀藩の精神文化の真髄を示すものとされ、明治後も葉隠精神の名のもとにおりおりに脚光を浴びた。『葉隠』登場前の元禄(げんろく)年間(1688~1704)多久邑主(たくゆうしゅ)(領主)の多久茂文(しげふみ)は、朱子学の学校東原庠舎(とうげんしょうしゃ)を創設し、さらに宝永(ほうえい)年間(1704~1711)には、孔子像および四哲の像を祀(まつ)る聖廟(せいびょう)を建てた。多久聖廟の春秋2回の釈菜(せきさい)行事は、江戸時代以来今日まで続く。藩学を代表する佐賀本藩の弘道館(こうどうかん)は、1781年(天明1)から1872年(明治5)ころまで存続し、文武両道にわたって教育の刷新を図った。この弘道館から、大隈重信(おおくましげのぶ)・江藤新平(えとうしんぺい)・副島種臣(そえじまたねおみ)・佐野常民(さのつねたみ)・大木喬任(おおきたかとう)ほか明治維新で活躍した多くの人材を輩出した。長崎防備の任にあった佐賀藩は、幕末期、積極的に西洋諸学を取り入れて蘭学(らんがく)寮、医学寮などを設け、長崎に英語学校致遠館(ちえんかん)を開いた。反射炉・アームストロング砲・蒸気船などの洋式科学技術の導入に佐賀藩は文字どおり先駆的な役割を果たした。また、伊東玄朴(いとうげんぼく)らがシーボルトに師事するなど、蘭方医術の修得に努め、日本で最初に種痘(しゅとう)接種を試みた。医学寮は1858年(安政5)に好生館(こうせいかん)と改称されたが、その名は今日もなお県立病院好生館(現、佐賀県医療センター好生館)として継承されている。

 明治以後、地元実業教育の振興にも目が向けられたが、中央向けの人材の育成という教育意識が根強く存在し、それは旧藩主鍋島(なべしま)家の文教事業にもみられた。県教育費が2万円程度であった1887年(明治20)当時、鍋島家から5000円の教育寄付金が県に提供されていたが、それには当時唯一の県立中学校であった佐賀県尋常中学校に対する大きな期待があった。また、1918年(大正7)には「財団法人佐賀育英会」が、鍋島侯爵を総裁とし、大隈重信らを中心に発足をみた。この育英事業が、昭和にかけて大学・高専・陸海軍諸学校・中学校などの上級学校進学者に果たした役割は大きかった。なお、1920年には、県内唯一の官立学校として佐賀高等学校が設置され、一部の県民子弟にとって帝国大学への道も身近となった。第二次世界大戦後の1949年(昭和24)には国立の佐賀大学が発足、1976年には佐賀医科大学(2003年佐賀大学に統合)が発足した。このほか、私立大学1校、短期大学3校がある(2018)。大正から昭和にかけ、鍋島家による図書館、徴古館(ちょうこかん)の事業は、社会教育などの面で大きな役割を果たしたが、その伝統は今日、佐賀市城内にみる図書館・博物館・美術館などの県立諸施設に継承されている。日本洋画壇の先達、久米桂一郎(くめけいいちろう)や岡田三郎助(さぶろうすけ)らを生んだ佐賀県に、1914年佐賀美術協会が創立されたが、その文化活動は今日も続いている。

[川崎 茂]

生活文化

2003年度(平成15)の県民1人当りの所得を市町村別にみると、原子力発電所のある玄海町や武雄市などを除けば東高西低の傾向を示し、県東部の佐賀・鳥栖両市とその周辺町村で高い。鳥栖方面では、工業・住宅団地や自動車道などの開発が目だち、県外の福岡・久留米(くるめ)両市などとの結び付きも強く、生活の変化が顕著に進んだ。佐賀平野の中心である県都佐賀市でも、都市化が進み、郊外のムラの生活に大きな変化が生じた。周辺のムラの農繁期には佐賀のマチなかが閑散とするほど、本来、マチとムラの生活には深いつながりがあった。また圃場(ほじょう)整備が佐賀平野に特徴的な溝渠(こうきょ)景観を変えた。かつて縦横に走る堀(クリーク)の水は家庭・灌漑(かんがい)用水として生活には欠かせなかった。灌漑用水を足踏み水車で堀から汲(く)み上げる過酷な労働や、堀の泥土(でいど)揚げ作業などは後世の語りぐさとなった。一方、半切桶(はんぎりおけ)による堀のヒシの実とりなどは代表的な風物詩であったし、堀でとれたフナの昆布巻きは秋祭(供日(くんち))に欠かせない御馳走(ごちそう)であった。しかし、電気灌漑や水道・農薬・化学肥料の普及、食生活の変化、さらには圃場整備などで、堀と結び付く生活様相は変わってきた。また、草葺(くさぶ)き寄棟(よせむね)民家が多く、かつては県南部に広く分布したコの字型「くど造」民家や、佐賀市川副(かわそえ)町など県南東部のロの字型「漏斗谷(じょうごだに)」民家が特徴的であった。かかる風土色豊かな民家も、屋根葺き替え問題のほか、都市化や有明海ノリブームなど農村生活の変化で、しだいに画一的な近代住宅に姿を変えてきた。脊振(せふり)山地では、近来のレタス栽培などにみられるように、道路整備とモータリゼーションで、いわゆる「山内(さんない)」の生活が変わってきた。東松浦半島の上場(うわば)地方は、かつて出稼ぎが多く、高校進学率も低かった。しかし、玄海原子力発電所の設置や観光開発などで道路整備や架橋が進められ、また二つの高校も上場地方に新設されて、通勤・通学など暮らしに変化が生じてきた。県内には、米、ノリ、ミカンなどのほか、有田焼、唐津焼の陶磁器をはじめ、田代売薬、神埼そうめん、小城羊かん(おぎようかん)、嬉野(うれしの)茶など各種の名産があり、各地の暮らしを支えてきた。有明海のムツゴロウや竹八漬(たけはちづけ)、玄界灘の松浦漬など珍味も数多い。

 民俗芸能には、国指定の重要無形民俗文化財として武雄の荒踊(あらおどり)、唐津くんちの曳山(ひきやま)行事、竹崎観世音寺(かんぜおんじ)修正会(しゅじょうえ)鬼祭、佐賀市白髭(しらひげ)神社の田楽、見島(みしま)のカセドリがある。見島のカセドリは「来訪神:仮面・仮装の神々」を構成する行事の一つとして、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産としても登録されている。武雄地方に伝承される荒踊は独特の武者踊で、鉦浮立(かねぶりゅう)がはやされ、各種の踊浮立(おどりぶりゅう)を演舞する。「浮立(ふりゅう)」は県下の代表的民俗芸能で、多様な分布を示し、田植から収穫までの農業神事などにしばしば奉納される。なかでも、鬼面(きめん)をかぶって演舞する面浮立(めんぶりゅう)は有明海沿岸の農漁村に広く伝承され、鹿島市音成(おとなし)の面浮立、伊万里市府招(ふまねき)の銭太鼓(ぜにたいこ)浮立は国選択無形民俗文化財で、毎年秋祭に奉納される。佐賀市富士町市川(いちかわ)の天衝舞浮立(てんつくまいふりゅう)など、県指定無形民俗文化財の浮立が各地にみられ、内容も多様である。なお、鳥栖市四阿屋(あずまや)神社の御田舞(おんだまい)は国選択無形民俗文化財で、県指定重要無形民俗文化財の神埼市仁比山(にいやま)神社の御田舞同様、農業神事に伴う芸能である。太良(たら)町の川原(こうばる)狂言は、素朴な浮立狂言を伝承し、神埼市千代田(ちよだ)町高志(たかし)の狂言とともに、国選択無形民俗文化財。県指定重要無形民俗文化財の伊万里市脇野(わきの)の大念仏(だいねんぶつ)も、本来は日照り続きや疫病のおりなどにみられた念仏踊で、念仏行(ぎょう)と鉦(かね)太鼓浮立とを組み合わせた芸能として知られる。有明海側で浮立など奉納される秋祭は、代表的な年中行事である。唐津神社秋祭の唐津くんちは、絢爛(けんらん)豪華な14台の曳山行事や、豪勢なおくんち料理などで、文字どおり唐津地方年中行事のピークをなす。伊万里くんちのトンテントン祭は、勇壮活発な町人の祭りである。唐津市呼子町加部島に鎮座する名社田島神社の夏越(なごし)祭や、朝市(あさいち)で知られる同市呼子の大綱引(おおつなひ)き、同市鎮西(ちんぜい)町名護屋の盆綱練(ね)りや、同市波戸(はど)の海中綱引きなど、玄界灘側の1年は多彩である。有明海側太良(たら)町の竹崎観世音寺に伝わる正月修正会の鬼祭は寒気のなかの裸祭で知られる国の重要無形民俗文化財で、童子舞(どうじまい)を伴う。鹿島市浜の寒ブナ市(いち)、白石町水堂安福寺(みずどうあんぷくじ)の出水法要、みやき町綾部神社風占(かざうら)の旗あげ、みやき町千栗八幡(ちりくはちまん)の粥(かゆ)だめし、沖ノ島詣(まい)りなど、有明海側にも地域に生きる年中行事が多い。なお有田陶器市(とうきいち)は陶都有田最大の年中行事で、鹿島市祐徳稲荷(ゆうとくいなり)の初午(はつうま)やお火焚(ひた)き同様に、遠近の人々でにぎわう。

 県内には、国・県指定の文化財・史跡・名勝・天然記念物などが、2018年(平成30)7月時点で、426を数える。これらは県下の歴史・文化・自然を理解するうえに欠くことのできないもので、各地域をはぐくんできた貴重な遺産である。肥前の窯芸文化を象徴する柿右衛門(かきえもん)(濁手(にごしで))、色鍋島(いろなべしま)は国重要無形文化財であり、武雄市の肥前陶器窯跡や、有田町・嬉野市の肥前磁器窯跡は国史跡である。なお基肄(きい)城(椽城)跡と、名護屋城跡ならびに陣跡は特別史跡で、帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごいし)とおつぼ山神籠石は国史跡。玄界灘側には、唐津市浜玉(はまたま)町の谷口(たにぐち)古墳や横田下古墳(よこたしもこふん)、唐津市葉山尻支石墓(はやまじりしせきぼ)群などの国史跡のほか、唐津市の宇木(うき)・桜馬場(さくらばば)出土品、恵日寺(えにちじ)朝鮮鐘、玄海町東光寺仏像などの国指定重要文化財をみる。有明海側にも、国特別史跡「吉野ヶ里遺跡」のほか、鳥栖市の田代太田(たしろおおた)古墳、佐賀市の西隈古墳(にしくまこふん)や銚子塚(ちょうしづか)、小城市三日月(みかつき)町土生(はぶ)遺跡などの国史跡が分布し、小城市牛津町常福寺、鹿島市蓮厳院(れんごんいん)、吉野ヶ里町東妙寺ほかに国指定重要文化財の仏像がある。多久聖廟(せいびょう)は、佐賀市の大隈重信旧宅同様に国史跡であるが、また佐賀城鯱(しゃち)の門および続櫓(つづきやぐら)、佐賀市与賀神社(よかじんじゃ)の楼門・石鳥居・石橋とともに、国指定重要文化財にも指定されている。なお国指定重要文化財の民家に、「くど造」(棟がかまどの構えのようにコの字になっている)の多久市川打(かわうち)家、「漏斗谷」の佐賀市川副町大詫間(おおだくま)の山口家のほか、佐賀市富士町吉村家、大町(おおまち)町土井家、嬉野市塩田町西岡家がある。また県立博物館の有明海漁労用具は、多久市の肥前佐賀の酒造用具とともに重要有形民俗文化財。国の特別名勝の虹の松原(唐津市)と名勝の九年庵(くねんあん)(旧、伊丹氏別邸)庭園(神埼市)がある。天然記念物は国指定では、玄海国定公園の七ツ釜(ななつがま)のほか、佐賀市富士町下合瀬(しもおうせ)の大カツラ、唐津市鎮西町広沢寺(こうたくじ)のソテツ、有田のイチョウ、武雄市川古(かわご)のクス、嬉野の大チャノキなどが知られる。さらに千石山サザンカ、高串アコウの自生北限地帯のほか、佐賀市久保泉町川久保(かわくぼ)のエヒメアヤメ自生南限地帯、黒髪(くろかみ)山カネコシダ自生地、県下各地のカササギ生息地なども国の天然記念物である。また、重要伝統的建造物群保存地区として、嬉野市塩田町塩田津(しおたちょうしおたつ)、有田町有田内山(ありたまちありたうちやま)、鹿島市浜庄津町浜金屋町(はましょうづまちはまかなやまち)、鹿島市浜中町八本木宿(はまなかまちはちほんぎしゅく)がある。なお、長崎自動車道の建設で他所に移築された佐賀市丸山遺跡などの例にみるように、開発の進展に伴い、文化遺産や自然の保護が急務とされている。

[川崎 茂]

伝説

佐賀県の巨人伝説では、巨人を「みそ五郎どん」とよんでいる。長崎と佐賀の土を掘り起こして天山(てんざん)をつくり、雲仙(うんぜん)岳に腰を掛けて有明海で顔を洗ったと伝えている。唐津市呼子町にある佐用姫(さよひめ)神社は、朝鮮の任那(みまな)に出征した夫との別離を悲しみ、石に化した松浦佐用姫の御形石(おかたいし)を神体とし、それを「望夫石(ぼうふいし)」と名づけている。夫を恋するあまり領巾(ひれ)(肩に掛ける布)を振ったという鏡(かがみ)山は、領巾振(ひれふり)山とよばれている。三韓侵略説話の中心人物、神功皇后(じんぐうこうごう)の伝説は本県にも多い。ことに神集(かしわ)島の産子(うぶこ)山は、皇后が応神(おうじん)帝を出産した地と信じられているが、記紀編纂(へんさん)のとき、日本を大国として位置づける意図でつくった架空の人物ともいわれている。白石(しろいし)町は和泉式部(いずみしきぶ)の生誕地といい、薬師如来(やくしにょらい)の申し子と伝えているが、一説には鹿(しか)の子として生まれたとある。その証拠には足が二つに割れていてつねに足袋(たび)をはいて、離すことができなかったという不思議な伝承がある。平家謀反の罪で鬼界(きかい)ヶ島へ流罪になった俊寛(しゅんかん)は、島で一生を終えたと『平家物語』にあるが、伝説では藤原成経(なりつね)・平康頼(やすより)赦免のとき、ひそかに同行して肥前に隠棲(いんせい)したという。佐賀市嘉瀬(かせ)町の法勝寺(ほうしょうじ)にその墓が残っている。佐賀化け猫騒動は広く流布したが、これは実録本『佐賀怪猫伝』あたりから影響された説話で、その動機とされた龍造寺高房(りゅうぞうじたかふさ)の自殺は島原での敗戦が原因であった。その後、鍋島直茂(なべしまなおしげ)は肥前を与えられた。禄(ろく)を離れた龍造寺の旧臣が主家再興を策した事件を下敷きにしたものという。古伊万里(こいまり)・柿右衛門(かきえもん)・色鍋島(いろなべしま)などの名品を生み出した有田の窯(かま)は、その昔、隠れ里とされ、秘法を守るために陶工たちを生涯、有田に釘(くぎ)付けにしていたという。「名工勇吉」は藩役人とのいさかいから禁を破って出奔したが、連れ戻されて斬首(ざんしゅ)になった。名陶の裏面には幾多の悲話が隠されていた。嬉野(うれしの)市の不動山はキリシタン禁圧の地として知られている。「子屋敷」「子捨て谷」「太刀(たち)洗い」などは、酸鼻(さんび)を極めた弾圧の跡をうかがうことができる伝説地である。武雄市の潮見川一帯は、県下でも河童(かっぱ)の害の多い所として有名であったが、河童の頭領を捕らえて「石に花が咲くまで害を与えぬ」と誓約させたという。その「誓文石(せいもんせき)」が現存する。

[武田静澄]

『『図説 佐賀県の歴史と文化』(1965・佐賀県文化館)』『佐賀県編・刊『佐賀県の民俗』(1965)』『『佐賀県史』上中下巻(1967~1968・佐賀県史料刊行会)』『城島正祥・杉谷昭著『佐賀県の歴史』(1972・山川出版社)』『市場直次郎著『日本の民俗41 佐賀』(1972・第一法規出版)』『青野寿郎・尾留川正平編『日本地誌20 佐賀県・長崎県・熊本県』(1976・二宮書店)』『山口恵一郎編『日本図誌大系 九州Ⅰ』(1976・朝倉書店)』『佐賀市編・刊『さがの民話』(1976)』『宮地武彦編『佐賀の民話60・71』(1976、1978・未来社)』『辺見じゅん他編『日本の伝説38 佐賀』(1979・角川書店)』『『日本歴史地名大系42 佐賀県の地名』(1980・平凡社)』『『角川日本地名大辞典41 佐賀県』(1982・角川書店)』『『佐賀県大百科事典』(1983・佐賀新聞社)』『佐賀県の歴史散歩編集委員会編『佐賀県の歴史散歩』(1995・山川出版社)』『杉谷昭也著『佐賀県の歴史』(1998・山川出版社)』『藤田勝良著『佐賀県のことば』(2003・明治書院)』


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