佐伯今毛人(読み)さえきのいまえみし

朝日日本歴史人物事典 「佐伯今毛人」の解説

佐伯今毛人

没年:延暦9.10.3(790.11.13)
生年:養老3(719)
奈良時代の官人。人足の子。姓は宿禰。左京の人。名は若子,天平19(747)年ごろに今毛人に改める。今蝦夷とも書く。東大寺造営に参画して,巧みに役民を使い,聖武天皇の信任を受けた。天平20年以来,造東大寺司次官としてみえ,東大寺の造営に中心的役割を果たし,天平勝宝4(752)年4月には大仏開眼会を迎えた。同7年1月,長官になり,天平宝字1(757)年3月まではその任にあったことが知られる。同7年1月造東大寺司長官に復したが,4月には市原王が長官になった。このころ,藤原良継が藤原仲麻呂専権を憎み,今毛人や石上宅嗣,大伴家持ら旧来の名族の人たちと共に,仲麻呂殺害を計画したが発覚し,良継ひとり罪に服し,他は難を免れたという事件が起こったが,今毛人がわずか3カ月で転任したのは,これに関連する措置か。翌8年1月には大宰府管下の城郭の造営を監督する営城監となり九州に下る。仲麻呂滅亡後の翌天平神護1(765)年大宰大弐となり,3月には築怡土城(前原市)専知官を兼任,神護景雲1(767)年2月造西大寺長官に転じて帰京するなど,度々造営事業に携わった。宝亀6(775)年6月遣唐大使に任じられ,翌年出帆したが順風を得られず,11月今毛人のみ大宰府から帰り,さらにその翌年4月には摂津職(大阪府)まで行ったが,病気のため渡唐しなかった。宝亀7年3月兄の真守と共に左京五条六坊の地を東大寺と大安寺から購入し,氏寺佐伯院(香積寺)を建立した。延暦1(782)年4月左大弁,翌年4月皇后宮大夫を兼任,同3年6月に造長岡宮使になったのはその造営手腕によるものであろう。同年12月参議,翌年6月正三位に昇り,5年4月大宰帥になったが,8年1月71歳で引退。<参考文献>角田文衛『佐伯今毛人』

(館野和己)

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改訂新版 世界大百科事典 「佐伯今毛人」の意味・わかりやすい解説

佐伯今毛人 (さえきのいまえみし)
生没年:719-790(養老3-延暦9)

奈良時代の官人。佐伯人足の子。役民を統率して造営工事にあたる才能を有し,聖武天皇の東大寺造営に官人として活躍,747年(天平19)造寺司次官,755年(天平勝宝7)には五位で造東大寺長官となった。藤原仲麻呂(恵美押勝)の権力掌握後は長官の任を離れ,763年(天平宝字7)造東大寺長官に再任された直後には,藤原良継,石上宅嗣,大伴家持らと仲麻呂を除くことを企てて発覚,解官された。翌年営城監,ついで大宰大弍兼築怡土城専知官となり,筑前国怡土城の造営にたずさわった。767年(神護景雲1)には左大弁,造西大寺長官となり,称徳天皇の勅願である西大寺の造営にあたった。光仁天皇の770年(宝亀1)には三たび造東大寺長官となり,775年には遣唐大使となったが,病のため渡海せず,のち大宰大弍となった。桓武天皇の782年(延暦1)には左大弁兼大和守で従三位に叙せられ,784年,天皇の長岡京造営にあたって藤原種継らとともに造長岡宮使に任命され,同年参議に列した。その後民部卿,大宰帥を歴任,789年官を退き,翌790年正三位で没した。72歳。《東大寺要録》や《日本高僧伝要文抄》に引く《延暦僧録》によると,大仏造立の功により聖武天皇から〈東大居士〉と称され,誦経・写経を行うなど仏教に深く帰依したといい,兄真守(まもり)とともに平城京に氏寺としての佐伯院を建立した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐伯今毛人」の意味・わかりやすい解説

佐伯今毛人
さえきのいまえみし
(719―790)

奈良時代の官人。姓(かばね)は宿禰(すくね)。初めの名は若子(わくご)。名門佐伯氏の出で、右衛士督(うえじのかみ)、人足(ひとたり)の子。初め造甲賀宮司に勤めたことが縁となって東大寺の造営にあずかることとなった。748年(天平20)造東大寺次官に補され、この曠古(こうこ)の大事業の責任者として心血を注ぎ、752年(天平勝宝4)の大仏と大仏殿の開眼落慶供養(かいげんらっけいくよう)にこぎつけた。ついで造東大寺長官に進み、東大寺の七堂伽藍(がらん)を竣功(しゅんこう)させた。のち造西大寺長官、大宰大弐(だざいのだいに)、左大弁(さだいべん)、造長岡宮使、民部卿(みんぶきょう)などを歴任し、参議正三位(しょうさんみ)大宰帥(だざいのそち)に至った。その最大の功績は、27年間、東大寺の造営に専念し、世界最大の金銅仏と木造建造物の造営を完遂したことである。

[角田文衛]

『角田文衛著『佐伯今毛人』(1963・吉川弘文館)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐伯今毛人」の解説

佐伯今毛人 さえきの-いまえみし

719-790 奈良時代の公卿(くぎょう)。
養老3年生まれ。佐伯人足(ひとたり)の子。佐伯真守(まもり)の弟。東大寺の造営にたずさわり,天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7年造東大寺司長官となる。また造西大寺司長官,造長岡宮使なども歴任。遣唐大使に任じられたが病気のため渡航せず,のち参議,民部卿,大宰帥(だざいのそち)などをつとめた。正三位。延暦(えんりゃく)9年10月3日死去。72歳。初名は若子。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐伯今毛人」の意味・わかりやすい解説

佐伯今毛人
さえきのいまえみし

[生]養老3(719)
[没]延暦9(790).10.
奈良時代の廷臣。東大寺のほか西大寺,長岡宮造営に参加,延暦4 (785) 年正三位に進んだ。

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世界大百科事典(旧版)内の佐伯今毛人の言及

【怡土城】より

…唐の安禄山の乱が伝えられ,新羅の征討が計画される緊迫した状況の中で756年(天平勝宝8)に兵法家としても知られる大宰大弐吉備真備(きびのまきび)を専当として起工された。763年(天平宝字7)にほぼ成り,765年(天平神護1)には大弐佐伯今毛人(さえきのいまえみし)を築怡土城専知官とし,768年(神護景雲2)に完成した。山頂から山麓にかけての西斜面に方15町(約1.6km),面積約284haという広大な城域を占め,現在までに4ヵ所の望楼跡をはじめ,土塁,城門,水門,礎石建物などの遺構が知られているが,構造的には朝鮮式山城である大野城基肄(きい)城とは異なり,大陸式山城とされる。…

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