佐々目郷(読み)ささめごう

日本歴史地名大系 「佐々目郷」の解説

佐々目郷
ささめごう

鎌倉鶴岡八幡宮の社領であった中世の郷。篠目・笹目とも書く。現在の浦和市南西部から戸田市西部にかけての地域に比定される。この辺りは標高三―四メートルの荒川左岸の沖積平野が展開するなかに、かつての沼沢地の名残である標高三メートル以下の低地が点在するとともに、標高四―五メートルほどの微高地(自然堤防)が樹枝状にほぼ南北に連なっている。「風土記稿」によれば、「鎌倉街道」「鎌倉古街道」と称される古道がこの地域を南北に貫通していたという。地名の由来は、同書下笹目村(現戸田市)の項に往古相模国佐々目谷(現鎌倉市)の者の移住・開発に基づくという説と、佐々目僧正(鶴岡八幡宮一〇世別当頼助)の領地であったことに由来するという説を併記しているが、確証はなく伝承の域を出ない。

鶴岡八幡宮寺供僧次第」によれば、佐々目郷地頭方が正応六年(一二九三)六月二七日に大乗経料所として鶴岡八幡宮に寄進されたあと、延慶四年(一三一一)三月二七日に鬮引によって同宮二十五坊の供僧たちに分田(配分)された。その後も当郷地頭方一方が応長元年(一三一一)九月に四季講料所として寄進されて正和元年(一三一二)四月一〇日に分田され、当郷領家方が建武二年(一三三五)八月二七日に座不冷料所として寄進されて同四年四月五日に分田され、さらに当郷地頭方女子方が同年四月一五日に四季講料所の追加分として寄進されて同五年五月二七日に分田されたという。地頭方・領家方という表現から、当郷ではこれより以前に下地中分が行われていたのであろう。建武二年八月二七日足利尊氏によって「不冷座本地供料所」として鶴岡八幡宮に寄進された所領は「美作権守知行分」とされている(「足利尊氏寄進状」鶴岡八幡宮文書)。美作権守については不詳であるが、この寄進は中先代の乱鎮定の直後にあたるので、おそらく乱鎮定の報賽として寄進されたものであろう。なお現在宮本の氷川女体みやもとのひかわによたい神社に伝存する大般若経巻五八九には「至徳第二乙丑臘月十六日 武州路足立郡佐々目郷於新八幡宮書写畢 権律師明厳謹拝手」と奥書されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「佐々目郷」の意味・わかりやすい解説

佐々目郷【ささめごう】

武蔵国足立(あだち)郡の中世郷。笹目・篠目とも書く。現埼玉県さいたま市南西部から戸田市西部にかけた地域とみられる。鎌倉鶴岡八幡宮領。《鶴岡八幡宮寺供僧次第》に,1293年佐々目郷地頭方を鶴岡八幡宮に寄進したとあるのが初見。かつての領主は不明だがすでに下地中分が行われていた。1335年には領家方も寄進されている。これらの所領は供僧らに分田され,鶴岡八幡宮の支配は中世を通じて存続した。なお室町時代には年貢減免闘争が頻発し,農民たちは逃散(ちょうさん)や近郷悪党らを利用した戦術を展開した。

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