佐々木庄(読み)ささきのしよう

日本歴史地名大系 「佐々木庄」の解説

佐々木庄
ささきのしよう

現安土町南部一帯を中心に展開したと考えられる庄園で、近江守護佐々木氏の本拠地であったことでも知られる。古代蒲生郡篠笥ささき(和名抄)の地に成立したと考えられるものの、同郷と当庄が地域的にどのような重なりをみせたのかは定かでない。「輿地志略」は近世常楽寺じようらくじ小中こなか慈恩寺じおんじ中屋なかやの四ヵ村を庄域と推定しているが、宇多源氏系の佐々木氏が本拠とした小脇おわき(現八日市市)も当庄に属したとされる。蒲生北部に本拠地をもつ佐々貴山公(狭狭城山君)による開発後、同氏の一族の領有下にあり、やがては宇多源氏系佐々木氏の管掌するところとなったものと推定される。

永治二年(一一四二)四月三日の散位源行真申詞記(「愚昧記」仁安三年一一月巻紙背文書)は豪族源行真の甥友員が一族の内紛で殺害された際の行真の陳述書で、この申詞記によれば行真の次男守真は左大臣殿(源有仁)御領「佐々木御庄乃下司」であった。「源平盛衰記」巻三〇(平家延暦寺願書事)によれば寿永二年(一一八三)七月一九日、平宗盛は「佐々木庄、領家預所得分等」を平清盛入道菩提回向のため、千僧供養料として、延暦寺に寄進している。ところで、佐々貴山公の一族は平安時代、蒲生郡大領や近江国追捕使に任ぜられ、その後裔は鎌倉時代以降代々沙沙貴ささき神社の神職にあったと一般に考えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報