伝通院(読み)でんずういん

精選版 日本国語大辞典 「伝通院」の意味・読み・例文・類語

でんずう‐いん デンヅウヰン【伝通院】

[一] 徳川家康の生母お大の方の諡号(しごう)。三河刈屋城主水野忠政の娘。松平広忠に嫁して家康を産む。父忠政が今川氏に叛き織田方になったため離別。のち久松定俊(俊勝)に再嫁したが晩年は家康に養われた。享祿元~慶長七年(一五二八‐一六〇二
[二] (「でんずいん」とも) 東京都文京区小石川にある浄土宗の寺。山号は無量山。応永二二年(一四一五了誉聖冏(しょうげい)が草庵を結び寿経寺と称したのに始まる。慶長七年(一六〇二)徳川家康の母お大の方(法号伝通院)を葬ったところから現名に改称関東十八檀林(だんりん)の一つ。豊臣秀頼の室千姫の墓がある。

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デジタル大辞泉 「伝通院」の意味・読み・例文・類語

でんずう‐いん〔デンヅウヰン〕【伝通院】

東京都文京区小石川にある浄土宗の寺。無量山寿経寺と称し、伝通院はその院号。開創は応永22年(1415)、開山は聖冏しょうげい。慶長7年(1602)徳川家康の生母お大の方の埋葬を機に、その法名で呼ばれるようになった。関東十八檀林の一。

でんづう‐いん〔‐ヰン〕【伝通院】

でんずういん(伝通院)

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日本歴史地名大系 「伝通院」の解説

伝通院
でんづういん

[現在地名]文京区小石川三丁目

小石川台南端の台地上に位置する。無量山寿経じゆきよう寺と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。徳川家康の生母於大(水野氏、法名伝通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼)菩提寺で、寺名は於大の法名による。江戸時代を通じて徳川家の菩提所として栄えた。芝増上寺を開いた聖聡の招きで応永年中(一三九四―一四二八)下総から江戸に移り住んだ聖冏(聖聡の法師)が小石川に建てた住坊(のちの寿経寺)が前身とされる。聖冏の住坊は氷川明神(現簸川神社)の傍らにあったと伝えるが、同社はのちに移転しており、正確な旧地はわからない。ただし現浄土宗宗慶そうけい(小石川四丁目)は寿経寺の境内跡地に建立された寺院といわれる。慶長七年(一六〇二)八月、於大は伏見ふしみ(現京都市伏見区)で没した。京都知恩院で法会の後、遺骸は菩提所に定められた寿経寺に葬られた。以降寿経寺は伝通院とよばれるようになった。

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改訂新版 世界大百科事典 「伝通院」の意味・わかりやすい解説

伝通院 (でんづういん)

東京都文京区にある浄土宗の寺。無量山寿経寺と号する。関東十八檀林の一つで,増上寺と並ぶ江戸浄土宗の名刹。1415年(応永22)了誉聖冏(しようげい)が小石川極楽水に小庵を結び,無量山寿経寺と号したのが始まりで,聖冏を開山とする。その後戦火をこうむり衰廃していたが,1602年(慶長7)徳川家康の生母於大(おだい)の方が上洛中伏見で亡くなると,遺言により遺骸を当寺に移し,増上寺の中興源誉存応(ぞんのう)を導師として葬送の法会が行われた。このとき,於大の法号伝通院殿をもって寺号を改めたといわれるが,一説には,寺号を法号としたともいう。翌03年寺地を現在地に移し,壮大な堂塔伽藍を建立した。08年には存応の高弟正誉廓山を中興開山と定め,新設の学寮には増上寺から所化の一部を移した。これより檀林すなわち僧侶の研究・教育機関として活況を呈するようになった。14年伝通院殿の13回忌に朱印300石が寄せられ,23年(元和9)さらに300石を加増して計600石となり,この年紫衣の綸旨を賜っている。その後も徳川家の外護(げご)を受けて威勢を誇ったが,明治以降衰微し,第2次大戦の戦火で烏有に帰した。戦後復興したが,昔日の面影はない。ただ伝通院殿や徳川2代将軍秀忠の息女千姫(天樹院殿),3代家光の正室本理院殿の墓など,徳川家の墓が多く,かつての隆盛をしのばせる。江戸三十三所観音の12番,円光大師二十五所巡拝の13番の札所としても信仰を集めた。現在,境内の東隣には淑徳学園が設置されている。
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伝通院 (でんづういん)
生没年:1528-1602(享禄1-慶長7)

徳川家康の生母,於大(おだい)の方。伝通院はその法号。三河刈屋城主水野忠政の娘で,岡崎城主松平広忠に嫁して家康を生んだが,水野氏が松平氏と敵対している織田氏に荷担したために離別された。のち久松定俊(俊勝)に再嫁。1602年(慶長7)家康に招かれて伏見に行き,家康は生母として手厚く遇したが,同年,伏見城で没した。法号は伝通院光岳蓉誉智光大禅定尼。遺骸は江戸に送られ,徳川家の菩提寺芝増上寺の管する小石川の無量山寿経寺に葬られた。同寺は1415年(応永22)に開基された増上寺ゆかりの寺とされるが,寺地が狭いためのち移転・拡張され,寺名もその法号により伝通院と改められ,将軍家の外護によって寺格も増上寺に次ぐものとされた。
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朝日日本歴史人物事典 「伝通院」の解説

伝通院

没年:慶長7.8.28(1602.10.13)
生年:享禄1(1528)
戦国時代の武家の女性。徳川家康の生母。於大。父は三河刈屋城(愛知県刈谷市)城主水野忠政。母の於富(華陽院)は,忠政と死別して岡崎城主松平清康に再嫁,於大も母と共に岡崎城に入った。天文10(1541)年,清康の子松平広忠に嫁し,翌11年家康を出産。しかし,同13年父方水野氏が織田氏に加担したことから離別され,生家に戻る。その後,同国阿古居城(知多郡)城主久松俊勝と再婚。3男4女を生む。永禄3(1560)年,今川勢の先鋒として桶狭間に向かう家康に阿古居城で再会。のち,夫俊勝は葵の紋と松平姓を許され,実子勝俊,定勝は家康の一族として遇された。慶長7(1602)年,後陽成天皇に謁した直後に伏見城で死去,従一位追贈。墓所は東京都伝通院。<参考文献>中村孝也『家康の族葉』

(西村圭子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伝通院」の意味・わかりやすい解説

伝通院
でんつういん

[生]享禄1(1528).三河
[没]慶長7(1602).8.28. 伏見
江戸幕府初代将軍徳川家康の母,於大の方 (おだいのかた) の諡号。青木加賀守政信の娘で,母は大河内但馬守元綱の娘といわれる。水野右衛門大夫忠政の養女となって松平広忠に嫁した。天文 11 (1542) 年竹千代 (家康) を産んだが,父忠政が今川氏にそむいて織田氏についたため同 13年広忠と離縁,久松定俊に再嫁したが,老いてから家康のもとに帰り伏見城に居住。墓所は東京都文京区の無量山寿経寺 (→伝通院 ) 。

伝通院
でんつういん

東京都文京区にある浄土宗の寺。無量山寿経寺。「でんづういん」ともいう。応永 22 (1415) 年了誉上人の開基。慶長7 (1602) 年徳川家康の生母である於大の方を葬り,その戒名によって伝通院と称する。関東十八檀林の一つとして大いに栄えたが明治以後衰えた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伝通院」の解説

伝通院 でんつういん

1528-1602 戦国-織豊時代,徳川家康の母。
享禄(きょうろく)元年生まれ。水野忠政の娘。天文(てんぶん)10年三河(愛知県)岡崎城主松平広忠にとつぎ家康を生む。父の死後,兄信元が松平氏と敵対していた織田氏に通じたため離縁される。尾張(おわり)阿久比(あぐい)領主久松俊勝と再婚。慶長7年家康にまねかれて伏見城にはいり,同年8月28日死去。75歳。江戸の伝通院に埋葬された。名は於大(おだい)。

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百科事典マイペディア 「伝通院」の意味・わかりやすい解説

伝通院【でんづういん】

東京都文京区小石川にある浄土宗の寺。関東十八檀林の一つ。1415年聖冏(しょうげい)の開基で,初め小石川極楽水にあった。1602年徳川家康は生母於大を葬り,その法名により伝通院と改称し,現地へ移建。境内には千姫の墓,淑徳学園がある。

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世界大百科事典(旧版)内の伝通院の言及

【徳川家康】より

…幼名は竹千代。父は岡崎城主松平広忠,母は刈谷城主水野忠政の娘(於大の方(おだいのかた),法号伝通院(でんづういん))。広忠は駿河の大名今川義元の勢力下で尾張古渡(ふるわたり)城主織田信秀と対立していたが,その渦中で於大の方の兄水野信元が今川氏に背いて織田氏と結んだので,於大の方は3歳の竹千代を残して離別され,まもなく尾張阿古居城主久松俊勝に再嫁し,竹千代19歳のときまで会うことがなかった。…

【関東十八檀林】より

…しかし最後にできた深川霊巌寺は24年(寛永1)の開山であるので,制度としての確立はそれ以降のことである。かくして成立した十八檀林は,開山の年代順に相模鎌倉光明寺,武蔵鴻巣勝願寺(埼玉県鴻巣市),常陸瓜連常福寺(茨城県那珂郡瓜連町),江戸芝増上寺,下総飯沼弘経寺(茨城県水海道市),下総小金東漸寺(千葉県松戸市),上総生実(おゆみ)大巌寺(千葉市),武蔵川越蓮馨寺(埼玉県川越市),武蔵滝山大善寺(東京都八王子市),武蔵岩槻浄国寺(埼玉県岩槻市),常陸江戸崎大念寺(茨城県稲敷郡江戸崎町),上野館林善導寺(群馬県館林市),下総結城弘経寺(茨城県結城市),江戸本所霊山(りようぜん)寺(東京都墨田区),江戸下谷幡随院(東京都小金井市,もと台東区浅草神吉町),江戸小石川伝通院,上野新田大光院(群馬県太田市),江戸深川霊巌寺(東京都江東区)である。学問所としての檀林はやがて幕府の寺院統制下で行政の一端をにない,一,二の変動はあったが宗教行政の中心となった。…

※「伝通院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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