会津西街道(読み)あいづにしかいどう

日本歴史地名大系 「会津西街道」の解説

会津西街道
あいづにしかいどう

日光街道今市宿の中央から北に分れ、大谷だいや川を渡り、鬼怒川上流の谷に沿って北上、高原たかはら(現塩谷郡藤原町)、国境の山王さんのう峠を越えて陸奥国会津郡に入り、会津若松城下に至る街道で、高徳たかとく(現藤原町)から玉生たまにゆう(現塩谷郡塩谷町)を経て氏家うじいえから阿久津あくつ河岸(現塩谷郡氏家町)までつながる道も、これに含められている。会津側では日光街道とよぶ。会津若松から白河へ出る会津東街道や会津中街道に対して西街道とよぶ。南山みなみやますなわち南会津(現福島県南会津郡)を貫通するところから、南山通ともいう。鬼怒川上流地方は、北に接する南会津地方と古来深いつながりがあったと考えられ、今市地方の縄文・弥生式土器は越後から会津を経て南下したことが確認できる。中世の下野国の有力御家人長沼氏は小山氏一族で、下野国長沼ながぬま(現芳賀郡二宮町)を本拠とした。寛喜二年(一二三〇)八月一三日の長沼宗政譲状(皆川文書)には、長沼庄などとともに「陸奥国南山」がみえる。一四世紀中頃には、主たる本拠を会津に移し、田島たじま(現南会津郡田島町)鴫山しぎやま城を拠点とし、山王峠南側の横川よこかわ三依みよりから藤原ふじはら(以上現塩谷郡藤原町)あたりの渓谷をも支配した。天正年間(一五七三―九二)にも奥州と関東を結ぶこの谷筋は要衝であった。同一八年八月会津黒川くろかわ(会津若松)で奥州仕置をすませた豊臣秀吉は、帰途はこの道を通っている。

寛永二〇年(一六四三)会津藩主となった保科正之は、日光参詣や江戸往復の最短路としてこの道を整備したが、鬼怒川上流から男鹿おじか川の渓谷を縫う、きわめて通行難儀な谷道であった。下野国塩谷郡最北部の三依地方は、幕府領会津藩預地で、下野国内ではあったが、正保国絵図・郷帳(慶安郷帳にあたるか)ともに下野国分に記載されていない。慶安四年(一六五一)の「下野一国」では「細道筋」として西街道の経路が記されるが、二ッ屋ふたつや(現藤原町)からは竜王りゆうおう峡の鬼怒川渓谷沿いを進めず、いったん高原峠に登り、五十里いかり(現藤原町)へ下って男鹿川(五十里川)をさかのぼり山王峠で国境を越える。高原峠の前後の山道は、秀吉の通過時に「太閤も御馬より下りさせ給ひ、歩行にて越えさせ給ふ」たことから「太閤下し」といわれた(会津四家合考)難所であった。保科正之入封以前の会津藩の公式路は会津東街道であったが、正之は入封翌年の参勤出府で西街道を通り、以後もこの道の整備を心がけた。万治二年(一六五九)二月の地震で山王峠が崩壊し、さらに三月の豪雨で被害が大きくなったときも、南山御蔵入領の人足を多量に動員して復旧に努めている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「会津西街道」の意味・わかりやすい解説

会津西街道
あいづにしかいどう

栃木県北西部,日光市今市から五十里 (いかり) ,山王峠 (906m) ,田島経由で福島県西部,会津若松市にいたる約 122kmの街道。別称日光街道。江戸時代に会津と江戸を結んだ。途中 13の宿場が置かれ,人馬も用意された。ほとんどが国道 121号線にあたり,鬼怒川温泉川治温泉五十里ダムへの観光道路でもある。山王峠は冬季積雪が多く通行困難。

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世界大百科事典(旧版)内の会津西街道の言及

【街道】より

…また久保田から本荘,酒田を通り,鼠ヶ関を越えて越後に入る浜街道は新潟を経て北国街道に連結した。会津から南下する会津西街道は今市で日光道中に結ぶ。また奥州街道の岩沼から太平洋沿岸を南下するのは浜通りとも浜街道ともいい,相馬中村,磐城平を経て,勿来(なこそ)の関を越えて常陸に入り,水戸街道につながる。…

※「会津西街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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