伊達千広(読み)ダテチヒロ

デジタル大辞泉 「伊達千広」の意味・読み・例文・類語

だて‐ちひろ【伊達千広】

[1802~1877]幕末歌人国学者。和歌山藩士。陸奥宗光の実父。号は自得。藩の重職として財政改革を推進したが失脚、脱藩して公武合体を画策した。著作に「大勢三転考」などがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊達千広」の意味・わかりやすい解説

伊達千広
だてちひろ
(1802―1877)

幕末の志士、歌人。紀州藩士。叔父伊達盛明の養子となり、通称藤二郎、別名宗広といい、自得と号した。本居大平(もとおりおおひら)の門人。藩主徳川治宝(はるとみ)に登用され、大番頭(おおばんがしら)格として勘定奉行(ぶぎょう)を兼ね、藩政に重きをなしたが、治宝の死後失脚。しかし政治への関心を捨てきれず、還暦を迎えた年に脱藩上洛(じょうらく)し、公武合体に尽力した。維新後は実子陸奥宗光(むつむねみつ)のもとに身を寄せ、風月を友とした。著書に『大勢三転考(たいせいさんてんこう)』『随々草(まにまにぐさ)』『余身帰(よみがえり)』などがある。

石毛 忠]

『高瀬重雄著『伊達千広』(1942・創元社)』『陸奥広吉編『伊達自得翁全集』(1926・雨潤会)』『陸奥広吉編『伊達自得翁全集補遺』(1940)』

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朝日日本歴史人物事典 「伊達千広」の解説

伊達千広

没年:明治10.5.18(1877)
生年:享和2.5.25(1802.6.24)
江戸後期の和歌山藩士,国学者。名は宗広ともいう。通称藤二郎,自得と号す。和歌山藩士宇佐美祐長の次男で,叔父伊達盛明の養子。文化13(1816)年小姓として藩主徳川治宝に仕え,以後累進し大番頭格,勘定吟味役を兼ねるに至るが,嘉永5(1852)年藩主の死により失脚,文久1(1861)年赦免されるまで南紀田辺に蟄居。2年脱藩し養子宗興と公武合体運動に関与。その後慶応1(1865)年禁固に処せられた。維新後は実子陸奥宗光のもとに身をよせ,和歌と禅に没頭した。千広は文政3(1820)年本居大平に入門,国学を学んだ。嘉永1年執筆の史書『大勢三転考』は彼の名を不朽にした。同書は古代から徳川幕府成立に至る日本の歴史を「骨の代」「職の代」「名の代」の3時期に区分してその変遷を論じた。それは従来の編年体や紀伝体という歴史叙述の形態に対し,客観的な制度の態様で時代区分をしたこと,また時代転換の説明の明快さという点でも斬新であり,次代史論の前駆とも評されている。<参考文献>高瀬重雄『伊達千広』

(沼田哲)

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改訂新版 世界大百科事典 「伊達千広」の意味・わかりやすい解説

伊達千広 (だてちひろ)
生没年:1802-77(享和2-明治10)

幕末維新期の国学者。本姓宇佐美,通称藤二郎,別名宗広。自得翁と号した。紀州和歌山藩士。藩主徳川治宝のもとで寺社奉行などの要職を歴任したが,治宝の死後に失脚。のち幽囚,帰藩,脱藩などを経ながら,公武合体論を唱えて,実子の陸奥宗光とともに国事に奔走した。本居大平門の俊秀として,同門の歌友長沢伴雄らとしのぎを削ったが,後年は禅の修行に専念した。《大勢三転考》は卓越した史観として著名。著書はほかに《随々草(まにまにぐさ)》《余身帰(よみがえり)》《幣帛袋(ぬさぶくろ)》《和歌禅話》《枯野集》など。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「伊達千広」の意味・わかりやすい解説

伊達千広【だてちひろ】

幕末明治初期の国学者,歌人。紀伊(きい)和歌山藩士宇佐美祐長の次男。姻戚伊達家の養子となる。宗広(むねひろ)とも称す。本居大平の門人で,藩主徳川治宝(はるとみ)のもとで寺社奉行などの要職を歴任したが,失脚。のち公武合体論を唱えて国事に奔走した。著書《大勢三転考》では国勢の推移に卓越した史観を展開した。陸奥(むつ)宗光は実子。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊達千広」の意味・わかりやすい解説

伊達千広
だてちひろ

[生]享和3(1803)
[没]1877.5.18.
江戸時代末期の歴史家,歌人。陸奥宗光の父。和歌山藩士。本名は宗広,通称は藤三郎,号は自得翁,本姓は宇佐美,伊達家の養子となる。初め漢学を,のち本居大平に国学を学ぶ。藩政の中枢に累進したが,尊王論を唱えたため,嘉永5 (1852) 年禁錮,さらに改易となる。文久1 (62) 年許されて和歌山に帰ったが,翌年脱藩し,国事に奔走。のち帰藩を許されたが,公武合体論を唱えたため,再び禁錮の身となった。慶応3 (67) 年維新により赦免。著書『大勢三転考』『余身帰』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊達千広」の解説

伊達千広 だて-ちひろ

1802-1877 江戸時代後期の武士,国学者。
享和2年5月25日生まれ。陸奥(むつ)宗光の父。紀伊(きい)和歌山藩士。本居大平(もとおり-おおひら)にまなび,藩主徳川治宝(はるとみ)の信任をえて藩の重職を歴任したが,治宝の死後失脚。文久2年脱藩して公武合体運動に参加した。明治10年5月18日死去。76歳。本姓は宇佐美。通称は藤二郎。号は自得。名は別に宗広。著作に「大勢三転考」「余身帰(よみがえり)」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伊達千広」の解説

伊達千広
だてちひろ

1802.5.25~77.5.18

幕末期の歌人・国学者。名は千広・宗広,通称藤二郎。自得と号す。和歌山藩士。本姓宇佐見。叔父伊達盛明の養子。陸奥宗光の父。大番頭格となり勘定奉行・寺社奉行を兼ねるが失脚,幽閉される。脱藩後,公武合体運動に尽力。本居大平(もとおりおおひら)に入門し歌作と国学の研究を行い,代表的歌集「枯野集」を残した。日本史の通史「大勢三転考」で独自の時代区分論を展開した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「伊達千広」の解説

伊達千広
だてちひろ

1802〜77
江戸末期・明治初期の歌人・歴史家
紀伊(和歌山県)藩士宇佐美祐長の子で,伊達盛明の養子となった。紀伊藩主徳川治宝 (はるとみ) に重用されたが,彼の死後失脚。日本通史『大勢三転考』のほか随筆・歌文集が多い。

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世界大百科事典(旧版)内の伊達千広の言及

【大勢三転考】より

…古代から江戸幕府成立までを述べた史論書。紀州藩士で国学者の伊達千広の著。1848年(嘉永1)成立。…

※「伊達千広」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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