伊王島村(読み)いおうじまむら

日本歴史地名大系 「伊王島村」の解説

伊王島村
いおうじまむら

[現在地名]伊王島町伊王島

現伊王島町域の北西部を占める伊王島を村域とする。北西端に鼻、北東島があり、島内に多尾たお仙崎せんさき大明寺だいみようじ船津ふなつなどがある。史料上は硫黄島・祝島ともみえる。神功皇后が新羅への遠征のとき船津に寄港し、島の景観を賞して祝詞を与えたところから祝島と称することになったという所伝がある。伝承では宝徳二年(一四五〇)筑前国新宮しんぐう(現福岡県新宮町か)の漁師七人が船津に漂着して居住したのが当島の始まりというが、その時期を元和四年(一六一八)頃とも伝える。江戸時代は肥前佐賀藩家老の深堀鍋島家領で、深堀ふかほり(現長崎市)の属島であったが、元禄年間(一六八八―一七〇四)に分立したというものの、天保郷帳などに記載がなく、その後も深堀村のうちとして扱われる場合が多い。

慶長二年(一五九七)「長崎医王島」に南蛮黒船が来航したので焼却したという(明安調方記)。正保元年(一六四四)の菩提寺過去帳(伊王島町郷土誌)に伊王島とあり、正保国絵図に伊王島が描かれる。寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)では深堀村のうちと考えられる。同八年の西国筋海陸絵図(国会図書館蔵)に「いおうの島」、元禄国絵図に伊王島、正徳五年(一七一五)の「長崎図志」に「硫黄島」「祝島いわいしま」として二〇〇余戸とある。享保四年(一七一九)の「長崎夜話草」では島人が農業・漁業を営むと紹介されている。宝暦二年(一七五二)の佐賀領郷村帳では伊王島村と村号を付す。享和三年(一八〇三)の郡村仮名付帳に人家有島として深堀郷のうち伊王島とあり、遠見番所が置かれていたと記される。化政期以降の人数は船津は約三〇〇、大明寺が一七〇で、文久元年(一八六一)当時の戸数は船津一八五と大明寺九六という(伊王島村郷土誌)

長崎湊を扼する島として重きをなした。一六三〇年(寛永七年)三月、福田ふくだ(現長崎市)を離れたジャンク船は、陸から船で近づいて乗船する者がいないように伊王島の端まで監視され、導かれている(平戸オランダ商館の日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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