伊作田村(読み)いさいだむら

日本歴史地名大系 「伊作田村」の解説

伊作田村
いさいだむら

[現在地名]田辺市稲成いなり

糸田いとだ村の西南に位置し、南部を通称小栗街道(熊野参詣路)が通る。中央部を秋津あきづ(現会津川)の支流糸田川(現稲成川)が南流する。村は南部のしも村、東部荒光あらびか村、北部のたに村の三ヵ村に分れており、伊作田はその惣名であった(享和三年「田辺領郡村仮名付帳」真砂具岳家蔵)

慶長検地高目録によれば村高五六四石余、小物成一石五斗二升八合。寛文三年(一六六三)の御改ニ付書上(万代記)によると家数一二〇で、うち役家六〇・無役家六〇。正徳五年(一七一五)の田辺組新田御検地書上帳(田所文書)によると新田六・四町余、高四三石余。

伊作田村
いざくだむら

[現在地名]東市来町伊作田

長里ながさと村の南に位置し、北部を江口えぐち川が蛇行しながら西流して海に注ぎ、その流域に平野が開ける。出水いずみ筋が通る。観応二年(一三五一)一一月二九日の足利直冬下文(旧記雑録)によれば、島津上総前司入道(貞久)のものであった伊作田村惣地頭職などが勲功の賞として伊作田道材に宛行われている。文和二年(一三五三)三月五日、伊作田兵部丞は市来氏家らとともに直冬方について蜂起した(「薩摩宮方交名注文」同書)。翌年薩摩の南朝方は伊作田城に集結し、薩摩守護所のあった碇山いかりやま(現川内市)に押寄せようとしたという(同年四月一〇日「島津師久請文」同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報