伊井蓉峰(読み)いいようほう

精選版 日本国語大辞典 「伊井蓉峰」の意味・読み・例文・類語

いい‐ようほう【伊井蓉峰】

新派俳優本名申三郎。東京出身。明治四一年(一九〇八以後「新派大合同劇」の座頭となり、河合武雄喜多村緑郎と新派三頭目時代をつくった。「いい容貌」からの芸名。明治四~昭和七年(一八七一‐一九三二

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デジタル大辞泉 「伊井蓉峰」の意味・読み・例文・類語

いい‐ようほう〔いゐ‐〕【伊井蓉峰】

[1871~1932]新派俳優。東京の生まれ。本名、申三郎。新派大合同劇の座長格。端麗な容姿と都会的な芸風で、新派の代表的な俳優として活躍した。

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百科事典マイペディア 「伊井蓉峰」の意味・わかりやすい解説

伊井蓉峰【いいようほう】

新派俳優。本名北庭申三郎。写真師北庭筑波の子として東京に生まれた。銀行員から川上音二郎一座に入り,のち退座して男女合同改良演劇済美館(せいびかん)を組織,新演劇の創造を企図した。また佐藤歳三,水野好美と伊佐水(いさみ)演劇を起こし,1909年新派大合同の際には座長となった。大正期には,河合武雄喜多村緑郎とともに新派三巨頭時代をつくり活躍。当り役は《不如帰(ほととぎす)》の武男,《金色夜叉》の貫一など。
→関連項目井上正夫

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改訂新版 世界大百科事典 「伊井蓉峰」の意味・わかりやすい解説

伊井蓉峰 (いいようほう)
生没年:1871-1932(明治4-昭和7)

俳優。本名申三郎,東京日本橋に生まれる。1891年浅草の吾妻座で男女合同改良演劇〈済美館(せいびかん)〉の旗揚げをし,千歳米坡(ちとせべいは)という女優を生んで,芸術主義の写実劇をめざした。1902年に近松劇を原作のまま上演して注目され,12年に明治座の座主となり,名実ともに新派界三巨頭(他に河合武雄,喜多村緑郎)の筆頭となった。当り役は《不如帰(ほととぎす)》の武男,《金色夜叉(こんじきやしや)》の貫一など。新派を統率した親分肌で知られた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊井蓉峰」の意味・わかりやすい解説

伊井蓉峰
いいようほう
(1871―1932)

俳優。写真師北庭筑波(きたにわつくば)の子として東京・日本橋に生まれる。独逸(ドイツ)学協会に学び、銀行勤務を経て1891年(明治24)の済美館(せいびかん)演劇に参加し、千歳米坡(ちとせべいは)の相手役を演じて美男俳優として認められた。彼には川上音二郎らの壮士芝居とは異なる出発をしたという意識が強く、実際に芸風も彼らとは違い、旧派俳優と一座して歌舞伎(かぶき)の演目を手がけたり、文芸作品の劇化上演を試みたりした。また、1902年(明治35)から約4年間にわたる近松研究の成果はかなり注目された。明治末には名実ともに新派の第一人者となり、大正期には河合武雄、喜多村緑郎(ろくろう)とともに活躍して今日の新派の基礎を築いた。

[松本伸子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊井蓉峰」の意味・わかりやすい解説

伊井蓉峰
いいようほう

[生]明治4(1871).9.30. 東京
[没]1932.8.15. 東京
新派俳優。本名北庭申三郎。 1891年,銀行勤務をやめて川上音二郎一座に参加。同年依田学海の後援で男女合同改良演劇を標榜して済美館で旗揚げ,95年伊佐水 (いさみ) 演劇を興し,『心中天網島』はじめ近松の作品を忠実に上演。鴎外のせりふ劇や,藤村,漱石,紅葉,蘆花その他の文芸作品と意欲的に取組み,1915年の新派大合同劇では座長になった。すぐれた容姿と写実的な演技で,河合武雄,喜多村緑郎と新派の3頭目時代を現出。代表的な役は『不如帰』の武男,『金色夜叉』の貫一,『婦系図』の早瀬,『二筋道』の阿久津など。

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朝日日本歴史人物事典 「伊井蓉峰」の解説

伊井蓉峰

没年:昭和7.8.15(1932)
生年:明治4.8.16(1871.9.30)
明治から昭和期の新派俳優。東京生まれ。本名申三郎。父は写真師北庭筑波。川上音二郎一座を経て,明治24(1891)年東京浅草に男女合同改良演劇済美館を旗揚げし,写実劇を試みた。35年原作に忠実な近松研究劇を上演し注目され,森鴎外の戯曲を初演するなど文学的志向を強めていった。41年新派大合同の座長となり,大正期には河合武雄,喜多村緑郎と共に新派劇の中心俳優として活躍,すぐれた容貌で人気を集めた。当たり役は「不如帰」の武男,「金色夜叉」の貫一,「二筋道」の阿久津などである。<参考文献>柳永二郎『伊井蓉峰年代記』

(藤木宏幸)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊井蓉峰」の解説

伊井蓉峰 いい-ようほう

1871-1932 明治-昭和時代前期の俳優。
明治4年8月16日生まれ。北庭筑波(きたにわ-つくば)の子。明治24年男女合同改良演劇の済美(せいび)館を結成する。35年東京真砂座で近松劇を上演。42年新派大合同劇では座頭となる。大正期には河合武雄,喜多村緑郎と新派三頭目時代をつくった。昭和7年8月15日死去。62歳。東京出身。独逸(ドイツ)学協会学校卒。本名は申三郎。

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旺文社日本史事典 三訂版 「伊井蓉峰」の解説

伊井蓉峰
いいようほう

1871〜1932
明治・大正時代の新派俳優
東京の生まれ。初め川上音二郎一座にいたが,1908年以来新派劇の頭目として活躍し,その基礎を築いた。

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世界大百科事典(旧版)内の伊井蓉峰の言及

【新派】より

…演技・演出ともに基本的には歌舞伎の物まねであったが,書生的な蛮声をはりあげての弁舌が注目された。もう一つの出発点は,91年11月に浅草の吾妻座で伊井蓉峰(ようほう)が〈男女合同改良演劇〉と称して〈済美館(せいびかん)〉を興し,依田学海《政党美談淑女之操》などを上演し,また翌年7月市村座で山口定雄が,93年6月吾妻座で福井茂兵衛(1860‐1930)が,それぞれ一座を組織し旗揚げをした動きである。彼らには政治色はまったくなく山口は元歌舞伎役者だし,伊井も芝居好きで銀行勤めからこの世界にとびこんだ人間であった。…

※「伊井蓉峰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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