仏生寺村(読み)ぶつしようじむら

日本歴史地名大系 「仏生寺村」の解説

仏生寺村
ぶつしようじむら

[現在地名]糸貫町仏生寺

現糸貫町の南東部に位置し、糸貫川東岸の平坦地に立地。古代の東山道が通り「せんと」「千道」の遺称が残る。戦国時代には鵜飼刑部少輔が仏生寺城に拠った。天正一七年(一五八九)検地帳(鵜飼文書)によれば田七七六石余・五五町三反余、畑一一三石余・四町六反余、屋敷三町八反余で、村高は以後元禄郷帳まで同じ。村内一二二人・村外二二人の高持百姓が耕作した。村内の高持百姓のうち最大は六四石持の堀部氏で、一〇石以上の高持二九人。地名のうち五反田ごたんだ天神てんじんはのち当村枝村名となった。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では奥平忠隆(加納藩)領。寛文八年(一六六八)加納藩主戸田光永が弟光賢に五千石を分給した折、郡府ぐんぶ村・三橋みつはし村・福田寺ふくでんじ村と石原いしはら春近はるちか両村の一部とともにこのなかに含まれ、旗本北方戸田領となり幕末に至った。

仏生寺村
ぶつしようじむら

[現在地名]氷見市仏生寺・吉池よしいけ細越ほそごえ大覚口おがくち

二上ふたがみ山系の丘陵に三方を囲まれた南西に延びる深い谷間に位置し、北は鞍骨くらぼね村、西は赤羽毛あかはげ村、南は礪波となみ山川やまかわ(現高岡市)。垣内に吉池・細越・上原うわはら上村うえむら(上中)大窪おおくぼ・大覚口・脇之谷内わきのやちがある。谷は入口にある大覚口付近で西と南に大きく分れ、西へ向かう谷間に本村集落・上村、奥に吉池がある。南に向かう谷間には脇之谷内があり、奥に細越がある。布施ふせ川の水源が吉池と細越にあり、道はこの谷間に沿って付けられる。大覚口より礪波郡岩坪いわつぼ(現高岡市)への道、脇之谷内より礪波郡頭川ずかわ(現同上)への道、細越より山川村への道、吉池より礪波郡勝木原のでわら(現高岡市)への道がある(「加越能御絵図覚書」加越能文庫)

仏生寺村
ぶつしようじむら

[現在地名]加茂町大字例幣れいへい 仏生寺

三上さんじよう山の南麓、瓶原みかのはらの北辺山際に立地する。海住山かいじゆうせん寺に登る入口の集落で、東北は口畑くちはた村、西南は登大路のぼりおおじ村。恭仁くに京跡ともいわれる山城国分寺跡北東に位置し、三上山中腹にある海住山寺は、天平七年(七三五)聖武天皇の勅願によって創建された藤尾山観音寺の寺跡を継ぐといわれるから、山麓のこの地も早くから開かれていたはずである。

仏生寺の地名はこの地に古くあった寺の名によるといわれ、「山州名跡志」は「古号仏生寺寺アリ、其跡存ス、上薬師下薬師ト云フ」と記すが、早くに退転したらしく不詳。海住山寺と関係のあった寺であろう。

仏生寺村
ぶつしようじむら

[現在地名]舟橋村仏生寺

白岩しらいわ川の支流ほそ川右岸に位置し、北は舟橋村、南は高木たかぎ(現立山町)、西は海老江えびえ村。地名はかつて細川宗十郎が城主の頃にあった仏生寺という寺跡に村立てしたことに由来するという(越中志徴)正保郷帳では高二一四石余、田方一二町六反余・畑方一町六反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三〇一石余、免五ツ、小物成は野役一三匁・鮎川役一匁、うち明暦三年(一六五七)の新田高二石(三箇国高物成帳)。天明四年(一七八四)の高三〇二石余、銀役三一匁余(「高野用水水下銀仕立覚」杉木家文書)

仏生寺村
ぶつしようじむら

[現在地名]彦根市仏生寺町

笹尾ささお村の北、霊仙りようぜん山中に位置し、矢倉やぐら川の支流寒谷さぶたに川が流れる。村名はかつて霊山りようせん寺七ヵ別院の一、仏生寺が所在したことによる。同寺は「興福寺官務牒疏」に庄厳しようごん寺・男鬼おおり寺とともに仏性寺の表記でみえる。慶長高辻帳に村名がみえ高一七五石余。江戸時代を通じて彦根藩領。元和六年(一六二〇)笹尾村とともに彦根藩領の立山への出入りを禁じられた(→笹尾村

仏生寺村
ぶつしようじむら

[現在地名]八郷町仏生寺

小桜こざくら川の最上流域、三方に山を負い、東は小野越おのごえ村に連なる。江戸初期に下総関宿藩領(寛文朱印留)、貞享四年(一六八七)から土浦藩領となり(土浦市史)、のち旗本領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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