今須(読み)います

百科事典マイペディア 「今須」の意味・わかりやすい解説

今須【います】

美濃国不破(ふわ)郡の地名で,現在は岐阜県関ヶ原町の大字中世は今須郷(居益郷),近世は今須村で中山(なかせん)道の今須宿が置かれた。今須郷ははじめ国衙(こくが)領で,1426年をあまり下らない時期に宝鏡(ほうきょう)寺(現京都市上京区)領となった。在地では長江(永江)氏が勢力を有し,居益城があったとされる。1442年長江氏は居益郷内の田地を郷内に建立した妙応寺に寄進している。1487年幕府は今須などに対する守護土岐成頼の押領(おうりょう)を退け,代官を入部させることとした。江戸時代は幕府領で,1770年大垣藩預地となる。今須宿は中山道67宿のうち江戸から数えて60番目の宿。東の関ヶ原宿との間にある今須峠は難所で,天文年間(1532−1555)には関所が置かれたという。1702年の町並みは東西17町10間,家数363のうち町家184。御用人足は御朱印人足250,賃人足5641のほか,北国脇道の雪踏み人足850など。1843年の宿内人別1784,家数464,本陣1・脇本陣2,旅籠屋は中7・小6。江戸時代初期,荷物継立をめぐって関ヶ原宿と争論があった。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「今須」の意味・わかりやすい解説

今須 (います)

美濃国(岐阜県)不破郡の地名。中世には今須(居益)郷,近世には今須村,中山道今須宿,現在は関ヶ原町の大字。室町時代長江氏がこの地に勢力を有し,重景が母の菩提のため妙応寺を建て,1442年(嘉吉2)元景らが仏田を寄進している。守護代富島氏を助けたが,斎藤氏に敗れて去った。宝鏡寺領の国衙領であったが,87年(長享1)守護土岐成頼の押領停止を幕府が命じており,応仁の乱中に守護代斎藤利国に押領されていた。その後,豊臣氏の蔵入地となり,古田織部重然,のち石田三成がその代官であった。江戸時代は幕府領,1804年(文化1)から大垣藩預地となった。中山道の宿場で,1702年(元禄15)363軒,うち町屋184軒,天保年間(1830-44)442軒,1875人。平井道を経て伊勢街道,濃州三湊に通じており,江戸時代のはじめ,関ヶ原宿と継ぎ荷物をめぐって争った。1954年関ヶ原町と合体
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

事典・日本の観光資源 「今須」の解説

今須

(岐阜県不破郡関ケ原町)
中山道六十九次指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android