今井兼平(読み)いまいかねひら

精選版 日本国語大辞典 「今井兼平」の意味・読み・例文・類語

いまい‐かねひら【今井兼平】

平安後期の武将木曾義仲乳母の子で、木曾四天王の一人通称四郎。義仲に従って入京後、源範頼・義経の軍に敗れ、義仲の死後自害謡曲に「兼平」がある。寿永三年(一一八四)没。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「今井兼平」の意味・わかりやすい解説

今井兼平
いまいかねひら

[生]?
[没]寿永3=元暦1(1184).1.20. 近江粟津
平安時代末期の武将。木曾の豪族中原兼遠の子。通称四郎。父は木曾義仲 (→源義仲 ) の養父で,兼平は義仲とは乳兄弟。治承4 (1180) 年9月,義仲の挙兵時から側近として活躍,木曾四天王の一人に数えられた。特に寿永2 (83) 年,平家軍の北陸進撃には,義仲の命を受けて越中般若野にこれを撃破,2日後の倶利伽羅谷合戦 (→礪波山〈となみやま〉の戦い ) を有利にし,次いで篠原の戦いでは平家軍を壊滅させた。同年7月義仲に従って入京,11月法住寺殿焼打ちに参加した。寿永3=元暦1 (84) 年1月,範頼,義経の軍が京都に迫ると,義仲の命で瀬田を守ったが敗れ,帰京の途中,粟津で義仲に自害をすすめたのち,戦死

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朝日日本歴史人物事典 「今井兼平」の解説

今井兼平

没年:元暦1.1.20(1184.3.4)
生年仁平2(1152)
平安末期の武士。四郎と称す。信濃国(長野県)出身。中原姓で,木曾兼遠の子。木曾の四天王と呼ばれる木曾(源)義仲家人のひとり。義仲の乳母子に当たる。寿永2(1183)年,義仲と共に北陸を転戦,水島合戦でも活躍した。法住寺合戦では後白河法皇に弓を引くことを諫めたが聞き入れられなかった。元暦1(1184)年源頼朝方の軍勢と瀬田で戦って敗れ,義仲と主従2騎となって落ち,義仲に自害を勧めて自らは敵陣に飛び込み,義仲の最期を知ると太刀をくわえて馬から飛びおり自害した。

(高橋秀樹)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「今井兼平」の解説

今井兼平 いまい-かねひら

1152-1184 平安時代後期の武将。
仁平(にんびょう)2年生まれ。中原兼遠の子。源義仲の家臣で乳兄弟。木曾四天王のひとり。治承(じしょう)4年の義仲の挙兵にしたがい各地を転戦。寿永3年1月20日源頼朝方の軍にやぶれ,近江(おうみ)(滋賀県)粟津で義仲に自害をすすめ,自分は討ち死にした。33歳。信濃(しなの)(長野県)出身。通称は四郎。

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世界大百科事典(旧版)内の今井兼平の言及

【源義仲】より

…さらに,源義経らの軍に敗れて都を逃れた義仲の最期の場面は,《平家物語》の白眉である。義仲は乳母子(めのとご)の今井兼平と打出の浜で行き会い,奮戦ののち,最愛の巴御前を無理に去らせる。兼平と主従2人になった義仲が〈日来(ひごろ)は何ともおぼえぬ鎧が,今日は重うなったるぞや〉と告げると,兼平は自害を勧め,その間敵を防ごうという。…

※「今井兼平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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