人形(にんぎょう)(読み)にんぎょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「人形(にんぎょう)」の意味・わかりやすい解説

人形(にんぎょう)
にんぎょう

人間の姿を模造して、木、紙、土、布、ゴム、金属、セルロイド、ビニルなどで加工された愛玩(あいがん)品。発生の歴史は古く、最初信仰の対象としてつくられたが、中世以後は鑑賞、趣好用として発達、さらに美術工芸品として扱われるようになるなど、多面的な性格をもっている。製作技法、材料なども、時代や分野により多種多様を極めている。

[斎藤良輔]

起源

人間が自分たちの姿の「雛型(ひながた)」をつくり、それを生きていくうえで心の支えにしようとしたのは、人類文化の始まりとほとんど同じくらい古い時代のことと思われる。木や土、石、藁(わら)などでこれをつくり、神や精霊が宿るものとして神聖視したり、あるいは人間の身代りとして悪病や災難除(よ)けに用いたり、安産、豊作を祈るまじないを目的にしたのが人形の始まりである。現在でも多くの民間伝承や世界各地の少数民族の生活にそれがみられる。病気にかかった際には、木や草で人間の形をつくり、それに病気を移らせて海に流す習俗とか、人形で子供を授かることを祈願するとか、多くの獲物を得たり、穀物を豊かに実らせることを人形に祈ることは、石器時代にもあったらしい。

 人形は時代とともに変転した。宗教的儀式や祭礼などに用いられていた人形が、しだいに遊び道具となって子供に与えられるようになった。また愛玩物になると同時に製作技法も進んできて、人形造型の美が鑑賞に堪えうるような美術工芸品にまで、その位置が高められるような発達ぶりを示したのである。

[斎藤良輔]

日本の人形

縄文、弥生(やよい)式文化時代の遺跡からも、原始宗教に結び付いた土偶、土面や、軟質の石でつくった岩偶などが発見されているが、古墳時代になると、古代中国の影響を受けた埴輪(はにわ)が生まれる。この土人形は信仰の対象の祭具としてつくられた。その当時の風俗を表現している点で、現在の人形の祖型が感じられる。古代の人形(ひとがた)は、神聖な力をもつものと信じられていた。それが時代の移り変わりとともに子供の愛玩物になって、たとえば宗教的な儀礼の役割を果たした信仰人形が、遊び用に与えられていったとも考えられる。子供への「みやげ」ということばは、「宮笥(みやげ)」つまり神々の宮にお参りして求めてくる「器物」という意味をもつ。祭器祭具類がしだいに玩具に変転していった過程がここに示されている。子供の誕生の初参りと氏神との結び付きをはじめ、四季を通じての行事や祭礼などにちなむ民間信仰から生まれた人形類が玩具化された例は、現在の郷土玩具に数多くみられる。

 平安時代に入ると、人形、形代(かたしろ)、芻霊(くさひとがた)、天児(あまがつ)、中世になるとさらに、這子(ほうこ)などの、植物、紙、布製の信仰人形が登場してくる。いずれも神霊のかわりとして禊(みそぎ)や祓(はらい)に用いられたり、人間の身代りとして病気、災難除けに川へ流したり、幼児の枕元(まくらもと)に置いてその健康を守ったりした。『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に、「土偶人木偶人俗に人形という」とあり、さらにひいな(雛)、ひとのかた(人の形)、艾人(がいじん)、傀儡(くぐつ)などの語がみえ、さまざまな種類のあったことを示している。そのなかで、「ひとがた」が人形の総称に用いられていたらしい。これを「にんぎょう」と現在のように読み始めたのは、鎌倉時代初期とされる。書物のうえでは、室町時代に入って『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)』に「御人ぎやう」と記されているのが最初ともいう。平安時代、これらの信仰人形のほかに、貴族階級の間には「ひいな」(雛)があった。男女をかたどった、子供のままごと遊び用の人形である。これらは互いに作用しあって、江戸時代に雛人形として発達、日本の人形作りの中核となった。

 「にんぎょう」ということばが一般に用いられるようになったのは、江戸時代からのことである。鎖国下の長い太平の生活から商工業が興隆し、それにつれて人形も商品として需要が増えた。仏師や能面師などの転職参加もあり、人形製作技法も目覚ましく向上して、精巧優美な日本人形独特の作品が登場した。ことに雛祭の流行から、美術的な雛や、それに付随してさまざまな節供人形がつくられるようになった。江戸初期には簡素な紙雛が飾られたが、しだいに裂(きれ)製の座り雛(内裏雛(だいりびな))が現れた。寛永(かんえい)雛に続いて大型で豪華な享保(きょうほう)雛、京都産の古典的な次郎左衛門雛、江戸生まれの写実的で優美な古今(こきん)雛などが次々に流行した。雛段が数を増すにしたがい、内裏雛のほかに三人官女、五人囃子(ばやし)、随身(ずいじん)、衛士(えじ)などの決まり物や、あるいは能・狂言に取題したものなどを添えて飾るようになった。節供人形は、5月の端午の節供にも最初冑(かぶと)人形がつくられ、やがて神功(じんぐう)皇后と武内宿禰(たけしうちのすくね)、鍾馗(しょうき)や英雄・豪傑を人形化した武者飾りなどが現れた。

 また一般家庭でも愛玩、鑑賞用の人形が数多くつくられた。京都産の御所人形は幼い男児の裸像で、大きな頭に横太りの肢体の美術的人形である。京の禁裏や公家(くげ)が大名家の挨拶(あいさつ)に対する返礼にこの人形を贈ったので、御所人形の名がついた。京坂地方では、若衆形俳優佐野川市松(いちまつ)に似せた通称市松(いちま)人形が人気を集めた。腰、膝頭(ひざがしら)、足首が折れて座れるようにつくられているので、三つ折れ人形ともいい、家庭で衣装を縫って着せたり抱いたりして遊んだ。この種の人形は明治以後も親しまれ、昭和期に入ると「やまと人形」の名でよばれた。昭和初期にはその代表作が人形使節としてアメリカへ渡り国際親善の役目を務め、人形の社会的地位を高めた。

 御所人形のほか、京都産では木目込み技法の木目込(きめこみ)人形(賀茂(かも)人形)、木彫りに金銀絵の具を極彩色に盛り上げるように塗って仕上げた嵯峨(さが)人形などがあった。信仰から発した土人形は、伏見(ふしみ)人形を源流として、幕末には全国で100近い産地が数えられた。多くは社寺の門前市、縁日などの土産(みやげ)物、節供人形としても飾られた。子供の悪病除けや出世開運、さらに豊作祈願、商売繁盛などを願う民間信仰と結び付き、現在も郷土玩具として生命を保っている。この仲間には、張子細工や練り物製の人形が各地にみられる。木製では東北地方のこけしや、熊本のべんた人形などの郷土人形があげられる。さらに大きなものでは、平安時代の大嘗会(だいじょうえ)の標山(しめやま)の形から生まれた山車(だし)人形がある。祭礼に引き出したり担いだりする屋台(山車)に飾る人形類で、等身大あるいはそれ以上の大型が多い。山車人形は祭礼の見せ物の中心となっていて、京都祇園(ぎおん)の山車人形、飛騨(ひだ)高山の高山祭の山車人形などが知られている。また平安末期に、手操(あやつ)りの人形を踊らせて見せ歩いた旅芸人の傀儡(くぐつ)回しが、江戸初期になって浄瑠璃(じょうるり)と結び付き、人形浄瑠璃芝居が生まれた。大坂にまず人形浄瑠璃劇場の竹本座が出現し、人形も、突っ込み人形、片手人形から、3人で操る複雑な人形劇に成長し、現在の文楽人形芝居が伝統を継いでいる。そのほか水や砂、水銀などを利用して人形を動かす「からくり人形芝居」、人間そっくりの写実的な生き人形、菊の花で細工した菊人形などを見せ物として興行されるものもある。座敷芸としてもこの種の操り人形が用いられ、野呂間(のろま)人形、手妻(てづま)人形、碁盤人形などが江戸時代にはみられた。野呂間人形芝居などは佐渡島(新潟県)の郷土芸能となって、いまもその名残(なごり)をみせている。

 明治期以後は、欧米風の人形が流行するようになった。大正期から昭和前期にはセルロイド人形などが盛んに出回った。第二次世界大戦後はビニル製の人形が登場し、伝統的なものでは、福岡市の博多(はかた)人形などが日本独特の民芸品として海外にも知られている。なお、大正中期ごろから婦人の手芸としてフランス人形作りが流行するなど、人形創作運動が盛んになってきて、現代日本風俗を扱った新日本人形の製作がおこってきた。昭和初期からは、人形作家の間で人形の芸術的向上を目ざす運動がみられてきて、粘土のかわりに紙を生麩糊(しょうふのり)で練って用いる紙塑(しそ)人形のような製作技術も生まれた。1936年(昭和11)第1回帝国美術院展覧会(帝展、後の日展)の工芸部に人形6点が初めて入選。人形が芸術作品として認識されるようになり、1955年(昭和30)には人形作家平田郷陽(ごうよう)、堀柳女(りゅうじょ)、1961年には鹿児島寿蔵(じゅぞう)が重要無形文化財保持者に認定された。

[斎藤良輔]

人形遊び

子供が自然物を玩具化して遊んでいた時代には、野山の植物を材料としたとうもろこし人形、松かさ人形などがあった。1815年(文化12)刊の『骨董集(こっとうしゅう)』(山東京伝著)には、「今の世の女童(めわらは)、ひいな草を採(とり)て雛(ひな)の髪を結ひ、紙の衣服などして平日(つね)の玩具(もてあそび)とす」とあり、春の野草を摘んで少女が人形遊びをしたことを記している。子供の遊び相手としての人形が、商品として一般に登場してきたのは江戸時代からで、1686年(貞享3)刊の『好色五人女』(井原西鶴(さいかく)著)に「目鼻なしの裸人形」とあり、子供の裸姿に腹掛けをした人形が描かれている。5、6歳くらいの幼女の姿をしたものが多く、30センチから60センチほどのものがほとんどで、家庭で着物を縫って着せた。子供の抱き人形として愛玩され、着物を着せ替える遊びを主とした着せ替え人形もあった。現在のやまと人形の原型で、江戸中期から雛祭にも並べた。最初は簡単な作りだったらしいが、三つ折れ式の精巧な市松人形などが出現した。紙製では姉様が少女たちの人形遊びに用いられた。千代紙細工などの衣装を着せた紙人形で、多くは家庭の手作りであったが、のちに商品化されたものも出回った。婦人の髪形を美しく強調した人形で、材料も土地により布、土、練り物、きびがらなどが用いられ、現在も郷土玩具として残っている。明治期以後はさらにゴム、セルロイド製などが加わってくる。ゴム人形は、明治30年代に入ると、鉄製外型にアンチモンを流し込んで型をつくる方法が開発され、国産の笛入り物などが盛んにつくられた。

 明治40年代からは、横に寝かせると眠った表情になる眠り人形の国産品も登場してきた。大正期から昭和期にかけては、セルロイド製のキューピー人形が子供たちの人気を集めた。またそのころ布製の抱き人形では、文化人形が代表的な作品であった。レーヨンメリヤスなどで頭、胴、手足を縫いぐるみにつくり、中にパッキングまたはおがくずを詰めたものである。スタイルは洋装だが、明治時代まで各家庭で少女の遊び相手につくられた縫いぐるみの「負い猿」(おさる)の系統にあたる。衣装を短く着けていて手足はぶらぶらしているので、「ぶらぶら人形」ともよばれる。胴に笛が入っていて押すと鳴るのもある。比較的安価で、普段抱いて遊ぶのに適しており、現在も人気がある。着せ替え人形では、明治中期ころに「ホーム」というセット物が登場した。10~15センチメートルほどの練り物製人形に、帯着物一式がついているもので、当時の少女たちの間で流行した。大正期には、厚紙へ彩色印刷した衣装を紙人形に着せる切抜き式のものがみられ、小物玩具として普及した。

 第二次世界大戦後にはビニル製人形が登場した。ミルク飲み人形、カール人形、お話人形、歩行人形などが続いて現れ、少女たちに愛玩された。ソフトビニル製、電動式など本物そっくりの肌ざわりで、動きが加わってきた点に特徴がある。1960年(昭和35)には、約30センチメートルの黒人のビニル人形「だっこちゃん」がブームを巻き起こして話題となった。男の子向きには怪獣もの、SFもののテレビ番組、漫画の主人公などを人形化したキャラクターものが出回っている。なお人形愛好層が拡大され、最近は成人向きのアンチック・ドールなどにも人気がある。

[斎藤良輔]

世界の人形

現存している人形で最古のものには、紀元前2000年ころのエジプト王朝の墳墓から発見された、副葬品の人形がある。体は木でつくられ、胴の部分に幾何学模様が彩色されていた。頭には数珠(じゅず)のようなものを数条垂らしてあり、兵士、従者などにかたどった木彫り人形が添えられてある。これらは家屋や船などの模型とともに埋葬されていた。また前1000年以前の幼児の墓に、木彫り彩色の人形で、手が動くようになっていて、当時の衣装を着けたものが埋葬されている。すでに少女の遊びのための人形が存在していたことが想像される。また紐(ひも)を引くとパンをこねる動作をする木彫り人形もあった。前500年ころの古代ギリシアの遺跡からは、土製の信仰人形が発掘された。なかには騎馬人形や鳥に乗った子供の人形などがある。古代中国でも殉死者の代用品として、俑(よう)(土人形)を死者とともに埋葬した。またローマ時代には、祖先にかたどった人形を家の神として祀(まつ)る風習があった。この習俗は、ヨーロッパ各地の農家などでは近世までみられ、人形は病気、災難除け、豊作祈願などさまざまな信仰の対象としてつくられた。13~14世紀には、イタリアのナポリを中心に、キリストの降誕の場を人形でつくり、一般家庭でクリスマスの祝いに飾ることが流行し、ヨーロッパ各地で行われるようになった。このころから人形はまた信仰と離れた別な道を歩み始めた。

 14世紀初期フランスのパリでは、衣装店が布製の人形を考案し、これに最新流行の衣装を着せ、一種の見本として外国へ送り出した。これはファッション・ドールの先祖にあたる。つまり19世紀に入って、衣装カタログが写真や印刷物でつくられ宣伝されるようになるまで、流行伝達の人気者としての役目を果たしたのである。これがフランス人形の始まりといわれる。15世紀ころ、ドイツの森林地帯にあるニュルンベルクを中心に、人形玩具、家具などをつくる工匠ギルド(同業組合)が生まれ、ヨーロッパの人形玩具の主産地となった。16世紀から18世紀にかけて、このギルドの工匠たちによって「人形の家」がつくられ、ヨーロッパの上流社会に流行した。これは、貴族たちの屋敷と家族の生活模型を正確な縮尺につくり、前面の壁を外して鑑賞するものである。最初はドイツの貴族たちの注文でつくられたが、「人形の家」はしだいにフランス、オランダ、イギリス、イタリアなど、ヨーロッパ各地の貴族の間に流行した。多くの人を招いて所蔵の「人形の家」を公開、鑑賞させた。これはまた富裕を誇示する象徴でもあった。最古のものは1558年の作品が記録されている。なお、イギリス、ロンドンにあるベスナル・グリーン博物館には、1673年から1974年までの「人形の家」の作品が収蔵され、イギリスにおける最大のコレクションを誇っている。

 そのほか蝋(ろう)人形は、宗教的なものとして4世紀ころからつくり始められていたが、17世紀にはドイツで石膏(せっこう)、粘土、張子製、19世紀には人形劇がヨーロッパで流行し、また陶製人形が現れた。19世紀末にはゴム人形やセルロイド人形がつくられるようになった。しかしセルロイドは引火しやすい欠点があるので、その後、不燃性セルロイドや合成樹脂が用いられている。このほか各民族の生活風俗を反映した多くの人形があり、それぞれ特産の材料を用いたものがみられる。アジア、ヨーロッパ各地には、糸操り人形(マリオネット)や指人形(ギニョール)があり、インドネシアなどの伝統的な影絵(ワヤン)人形、中国の張子人形、スペインのフラメンコ舞踊人形、アメリカのラッグ・ドール(ぼろ布人形)、スイスの木彫り人形、ロシアのクークラ・グレルカ(ポット保温用人形)、チェコのガラス人形など、愛玩、室内装飾、実用、鑑賞向きのさまざまなものがある。また各国で固有民族衣装の人形類などが、観光土産用にもつくられている。

 ヨーロッパの子供向き人形は、8~9世紀ころ古布でつくったものが現れ、14世紀ころには、イギリスに騎士人形、ドイツにトッケンとよぶ木製人形などが登場してきて、人形がこれまでの信仰の対象から離れ、子供の遊び相手となった。トッケンは後にドッケンとよばれ、人形生産の中心地となったドイツのニュルンベルクでは、それを職業とする工匠たちはドッケン・マッハー(人形作り)とよばれた。男の子のためには17世紀に銀製の兵隊人形が貴族家庭で愛玩され、18世紀に入るとニュルンベルクで錫(すず)製の兵隊人形が生まれた。アンデルセン童話の「一本足の兵隊」もこの錫製の人形で、これを使う戦争ごっこ遊びがヨーロッパ各地で流行した。また女の子のためには紙製の指人形、首の動く抱き人形、さらに19世紀にかけてはこれまでの成人の顔つきのものから、新たに無邪気な子供の表情をもつ作品が登場してきて、人形が子供のためになりきる黄金期を迎えた。イギリスのベビー人形がその道を開いた。

 19世紀に入ると機械人形が発達して、アクションつきのオルゴール人形がスイスやドイツで生まれた。フランスやアメリカでは歩く人形が現れた。頭は陶製、胴は練り物製の眠り人形も生まれた。18世紀から19世紀にかけて、ビスク(素焼を二度焼きしたもの)を頭に用いた美しい抱き人形が製作されて流行した。フランスのジュモー、ゴーチェ、ドイツのスタイネルなどがその人形製作者として知られ、現在もアンチック・ドールの代表的な作品として人気を集めている。

[斎藤良輔]

『西沢笛畝著『日本の人形と玩具』(1975・岩崎美術社)』『西沢形一・藤間寛著『日本人形のあゆみ』(1986・芸艸堂)』『読売新聞社編・刊『The西洋人形』(1983)』


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