日本大百科全書(ニッポニカ) 「京劇」の意味・わかりやすい解説
京劇
きょうげき
中国の代表的な伝統演劇。中国の伝統演劇はほとんどが歌劇形式であり、時代や地域によって、歌曲、ことば、演技様式などに特徴的な発達がみられ、とくに曲調の違いが劇様式を決定するという点に特色がある。京劇は、360種以上も数えられるという伝統的な地方劇のうち、北京(ペキン)地方で大成したところからこの名があり、またその曲調から皮黄戯(ひこうぎ)ともよばれるが、いまではペキン・オペラの名でも世界に知られている。
[内山 鶉]
歴史
豊富多彩な足跡をたどってきた伝統演劇のうち、17世紀中葉(明(みん)末清(しん)初)湖北(こほく/フーペイ)省、安徽(あんき/アンホイ)省など揚子江(ようすこう/ヤンツーチヤン)沿岸地域に生まれた二黄調(にこうちょう)という節回しが、やがて京劇に成長してゆく。これは、湖北、安徽両省の民謡に弋陽腔(よくようこう)とよばれる江西(こうせい/チヤンシー)省一帯の曲調が結び付いたものであるが、湖北省の黄岡(こうこう)、黄陂(こうは)出身の俳優たちを中心に編み出されたところから二黄調の名がある。元代の雑劇(元曲)、明代の伝奇の後を受けて清代に至る300年ほどは、蘇州(そしゅう/スーチョウ)の崑山(こんざん)地方におこった崑劇(こんげき)(崑曲(こんきょく)ともいう)が王座を占めていたが、18世紀に入って王侯貴族の慰みものとなり衰微の兆しをみせた崑曲に対して、民衆のなかで盛行し始めたのが二黄調であった。
この新しい演劇が、当時の商業中心地であった江蘇(こうそ/チヤンスー)省の揚州に及び、1790年乾隆帝(けんりゅうてい)高宗(こうそう)の80歳の誕生祝宴を機に、その地の豪商の手で北京にもたらされた。このとき安徽省の劇団三慶班の若手女方(おんながた)高朗亭(こうろうてい)が二黄調を演じて首都を席巻(せっけん)したのである。文学的で優雅であるが難解で冗長な崑劇に対して、上演時間は短く、平易で動きが多く、民衆の生活感情を盛り込んだ二黄調は大衆受けしやすく、たちまち流行し始めた。新興の劇種でもあり様式上の融通もきくために、二黄調は崑劇をはじめ多くの先行劇種から技術やスタイルを貪欲(どんよく)に取り入れつつ、清末の1830年ごろには、陝西(せんせい/シャンシー)地方の秦腔(しんこう)の流れをくむ西皮(せいひ)という曲調と合体することによって、皮黄腔つまり京劇へと飛躍を遂げ、崑劇にとってかわって劇界の覇者となるに至った。皮は歌うことを意味し、腔は節回しのことである。つまり、京劇の歴史はたかだか200年たらず、中国の伝統劇としては比較的浅いものであり、歴史の長い崑劇を愛好する上流知識人からは低俗な大衆劇とさげすまれながらも、草創期に程長庚(ていちょうこう)、のちに譚鑫培(たんきんばい)らの名優が輩出して改革を重ね、格調を高めてきた。
1919年の五・四運動をはじめとする新文化運動のなかでは、京劇は旧文化の牙城(がじょう)ともされたが、女方の名優梅蘭芳(メイランファン)らによって、劇場や上演形式の近代化が試みられ、芸にもいっそうの磨きがかけられた。日中戦争時にひげを蓄えて日本軍の上演要請を拒否したという梅蘭芳のエピソードは有名である。梅は1919年、30年、56年と三たび日本公演を行っており、日本にも京劇愛好者は少なくない。
[内山 鶉]
内容と形式
他の多くの伝統劇種と同じく、歌、せりふ、しぐさ、立回りによって構成される独特の様式をもち、しばしば日本の能や歌舞伎(かぶき)に比せられる。とくに歌唱が重視され、俳優のことを「劇歌い」、観劇のことを「聴劇」ともいう。脚本は元曲、伝奇、崑劇などに比べて文学性が高いとはいえず、むしろ上演用の台本というべきで、現存の1300余種のほとんどが作者不詳である。元曲や伝奇の改作のほか、『三国志』の部分脚色がとくに多く、『水滸伝(すいこでん)』『西遊記』『紅楼夢(こうろうむ)』『聊斎志異(りょうさいしい)』など史伝小説、神話伝説に取材した1時間前後の作品が大半を占めている。
もともと1枚の幕の前の方形の舞台で上演され、道具は紅塗りの机と椅子(いす)1、2脚のみ、それを積み上げて山や岩を表したり、各種の小旗や布屏風(びょうぶ)で場面を表現する。伴奏音楽は、崑劇の笛にかわって胡弓(こきゅう)が歌のメロディを主導し、銅鑼(どら)や太鼓が見得(みえ)や立回りのリズムを刻む。使用されるメロディは20曲余りであるが、内容に応じてリズム、テンポのくふうが凝らされる。このように約束ごとに基づく誇張が、舞踊的また象徴的な様式演技に昇華されるのである。衣装は明代の装束をもとにした超時代的な華美なもので、色や模様で身分や職業が象徴される。もともとは男優のみで演じられる舞台で、女方の発達は歌舞伎にも似ているが、近代以降は女優も多くなっている。役柄は厳密に定められ、大きくは、生(せい)(立役)、旦(たん)(女方)、浄(じょう)(豪傑、敵(かたき)役)、丑(ちゅう)(道化役)、末(まつ)(端役)に分かれて、浄と丑は顔に隈取(くまどり)(臉譜(れんぷ))をする。それぞれの役柄に文武の2系統があるほか、さらに細分化されている。俳優は幼少時から資質にあった専門の役柄を習得するのである。
こうしてつくられた京劇の代表的な古典演目には『打漁殺家(だぎょさっか)』『宇宙鋒(うちゅうほう)』『白蛇伝(はくじゃでん)』『楊門女将(ようもんじょしょう)』『野猪林(やちょりん)』『覇王別姫(はおうべっき)』『貴妃酔酒(きひすいしゅ)』『三岔口(さんたこう)』『雁蕩山(がんとうざん)』『鬧天宮(どうてんきゅう)』などがある。いずれもその音楽、衣装、舞踊的動作、緊迫した立回りなどによって絢爛(けんらん)たる舞台を展開し、優れて叙事的な表現を生み出す。その演出・演技は、ドイツのブレヒトが叙事演劇論を編み出すヒントにもなった。格調高く密度の濃い、研ぎ澄まされた京劇の舞台を、西欧の批評家は「死と紙一重の演技」や「1000分の1秒の時間と100分の1ミリの空間を単位として計算された動作」などと評している。
[内山 鶉]
京劇改革
新中国の成立とともにつくられた中国伝統劇研究院や中国京劇院を中心に、国家の文化政策として伝統劇の改革運動が推進された。「百花斉放(ひゃっかせいほう)、陳(ふる)きを推して新しきを出す」という方針のもとに、京劇についても、脚本、演出の両面から封建的な内容を取り除き、民衆の創造にかかるものを掘り起こす作業が組織的に行われたが、これは、1920年代から梅蘭芳ら名優の手によって始められた京劇の近代化をさらに進めるもので、「古き革袋に新しき酒を盛る」ために現代を題材とする演目も創作された。しかし、もともと封建社会のなかで生まれた古典演目が、社会主義社会でそのまま上演できるわけもなく、上演禁止演目も出てくるし、ほとんどが改訂を要することになる。数多くの古典演目の整理改編や新作歴史劇の創作は実際の需要に追いつかず、上演できる演目が少なくて、多くの劇団が公演活動に支障をきたし、観客の京劇ばなれも起こってきた。1956年の「百花斉放・百家争鳴運動」のころから観客を呼ぶために一度は上演を禁止された演目までが舞台にかけられるようになる。さらに57年からの反右派闘争、58年からの大躍進政策の失敗、59年から3年にわたる自然災害、60年の中ソ論争表面化、そして61年には梅蘭芳の死去という情勢のなかで、伝統劇の改革は進まなかった。そこで政府は64年に現代京劇競演大会を開いたが、それは江青(こうせい/チヤンチン)(毛沢東夫人)の主導によるものだった。これが文化大革命の導火線となったのである。江青らは、『智取威虎山(ちしゅいこざん)』『紅灯記』『沙家浜(さかほう)』など革命現代京劇5本、バレエ2本、交響曲1本の8演目を模範劇とし、古典演目など他作品の上演をいっさい禁止するという暴政に出て、京劇のみならず中国演劇界全体に10年余に及ぶ窒息状態をもたらした。現代京劇は、京劇革命化の名のもとに英雄を主人公とし、舞台構成、演技ともに対話劇に大きく近づける結果になってしまった。
1976年にはいわゆる文化大革命も終結、やがて演劇界は息を吹き返し、古典演目も舞台をにぎわし始めたが、名優たちは相次いで故人となり、そのあとを継ぐべき俳優や楽士たちにとっても空白の10余年間は大きかったといわざるをえない。しかしその後も、古典演目の整理改編は続けられ、新作歴史劇や現代京劇も意欲的に試みられている。日本をはじめ国外公演も増えて、中国を代表する京劇は着実に再興への道を歩んでいる。89年には中国京劇院と日本の市川猿之助一座との合同公演『リュウオー』が好評を博して京劇の健在ぶりを示したし、その後はほとんど毎年のように各地の京劇団が訪日公演を行っている。
[内山 鶉]
『竹内良男他著『京劇手帖』(1956・三一書房)』▽『河竹繁俊他著『京劇』(1956・淡路書房)』▽『石原巌徹・岡崎俊夫著『京劇読本』(1956・朝日新聞社)』▽『樋泉克夫著『京劇と中国人』(1995・新潮社)』▽『趙暁群・向田和弘著『京劇鑑賞完全マニュアル』(1998・好文出版)』▽『魯大鳴著『京劇入門』(2000・音楽之友社)』