享保の飢饉
きょうほうのききん
1732年(享保17)秋から翌年春にわたる大飢饉。32年夏、瀬戸内海沿岸を中心にバッタの大群が発生し、とくに九州東部、中国および四国の西部を中心に、畿内(きない)以西の稲作は大損害を受けた。損害が過半に及んだ藩は46藩、過去5年平均の年貢収入の4分の3近くを失い、その他の藩や幕領も甚だしい減収となり、被災民265万人、餓死者1万2000人に達したという。凶作の影響はこの年の暮れから翌春にかけて大都市にも波及し、連年低落を続けてきた米価が数倍に暴騰し、大坂、京、江戸の住民の生活を脅かし、不安の空気を生じた。33年正月25日には、幕府の御用米商高間伝兵衛(たかまでんべえ)が大量の米を隠匿しているとの噂(うわさ)に怒った江戸の窮民約1700人が伝兵衛宅を破却した。大都市最初の打毀(うちこわし)である。混乱は次の麦の収穫期から鎮静に向かったが、享保の改革の緊縮・府庫充実政策を一頓挫(とんざ)させた事件であった。
[辻 達也]
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享保の飢饉【きょうほうのききん】
1732年(享保17年)近畿・中国・四国および九州地方一帯を襲った飢饉。原因は稲虫あるいは蝗虫(こうちゅう)(イナゴ説もあるが,ウンカ説が有力)の大量発生であった。損毛(そんもう)率が5割を超えた藩が46にのぼり,なかには8割以上に達する藩もあった。飢人数は260万人以上,餓死人も1万2000人以上となった。幕府は大名・旗本に米を払い下げ,幕府領では夫食米(ぶじきまい)を支給したが,米価は高騰し,翌年正月には,江戸市中で打毀(うちこわし)が行われた。→天明の飢饉/天保の飢饉
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享保の飢饉
きょうほうのききん
享保 17 (1732) 年西日本を襲った飢饉で,天明 (81~89) ,天保 (1830~44) の両飢饉とともに江戸時代の三大飢饉の一つに数えられる。暖冬に次ぐ冷夏で,虫害を伴い,米の大凶作が起った。幕府領では 27万石の救助米を放出したため餓死者はなかったが,西南諸藩では合計1万 2000人あまりの餓死者,1万 4000頭以上の餓死牛馬を出した。
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享保の飢饉
きょうほうのききん
1732(享保17)年,イナゴの害を主因として西国一帯におこった飢饉
天明・天保と並んで三大飢饉に数えられる。米価の著しい高騰は翌年の江戸の打ちこわしを誘発したが,幕府の米価の調節と豊作により,3年ほどでおさまった。
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デジタル大辞泉
「享保の飢饉」の意味・読み・例文・類語
きょうほう‐の‐ききん〔キヤウホウ‐〕【享保の飢饉】
享保17年(1732)イナゴ・ウンカなどの虫害により西国一帯に起こった大飢饉。被災地への米の回送などで江戸の米価が急騰し、翌年、江戸で最初といわれる打ち壊しが起こった。
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きょうほう【享保】 の 飢饉(ききん)
享保一七年(一七三二)イナゴの大発生により西国一帯に起きた大飢饉。米価が急騰し翌年江戸で打ち壊しが起きた。
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きょうほうのききん【享保の飢饉】
1732年(享保17)に中国,四国,九州および近畿地方の一部を襲った飢饉。この後の天明,天保の飢饉とあわせて江戸時代の三大飢饉とよばれる。その様子は《草間伊助筆記》に〈七八月ニ到り,西国・九州・四国・中国筋都テ稲虫一チ時ニ生シ,次第次第ニ五畿内
も移り,此虫後ニハ大キニ相成りこがね虫之如クニテ悉ク稲ヲ喰ヒ枯シ申候,(中略)其虫形チ甲冑ヲ帯シたるやうニありて,一夜之内ニ数万石之稲ヲ喰ヒ,田畑夥敷損毛有之,土民飢渇ニ及ヒ,西国筋
五畿内大坂辺
道路ニ倒レ候もの数しれす,米価古銀ニテ五六月頃
七月中旬
ハ壱石六拾四五匁,追々高直ニ相成り,九十月之頃百弐三十匁ニ成候〉と記されている。
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世界大百科事典内の享保の飢饉の言及
【享保改革】より
…幕府は米価引上げのため幕領には60万石の置籾を,諸大名・商人には買米を命じ,1725年から江戸・大坂に米会所設立を計画したが失敗,大坂堂島米市場での延取引(空米取引)を公認した。32年西日本が蝗害でいわゆる享保の飢饉となり,被災飢民約260万,餓死者1万2000という被害を受けた。被災地に大量の救援米を回送したため米価が高騰し,33年1月江戸で米問屋高間伝兵衛店を細民が襲う最初の都市打毀が起こった。…
【肥前国】より
… 1732年(享保17)にはウンカの被害によって近畿以西,なかでも西海道地域は惨状を呈した。享保の飢饉は多くの餓死者を出したが,肥前国でも大きな被害が発生した。しかし藩側の対応で餓死者数が異なった。…
【松山藩】より
…江戸中期には栗田樗堂,百済魚文らにより,伊予俳諧の全盛を迎える。1732年(享保17)享保の飢饉は松山藩にも大被害を与え,種麦を枕に餓死した筒井村(現,伊予郡松前町)義農作兵衛の話が生まれた。藩内の餓死者は3400人に達したという。…
※「享保の飢饉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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