二・二六事件(読み)ににろくじけん

世界大百科事典 第2版 「二・二六事件」の意味・わかりやすい解説

ににろくじけん【二・二六事件】

1936年2月26日に起こった皇道派青年将校によるクーデタ。満州事変開始前後から対英米協調・現状維持的勢力と,ワシントン体制の打破をめざし国家の改造ないし革新をはかる勢力との抗争が発展し,さらに後者の最大の担い手である陸軍内部に,国家改造にあたって官僚財界とも提携しようとする幕僚層中心の統制派と,天皇に直結する〈昭和維新〉を遂行しようとする隊付青年将校中心の皇道派との対立が進行した。1934年士官学校事件による皇道派の村中孝次(たかじ)・磯部浅一の免官,35年7月皇道派の総帥真崎甚三郎教育総監の罷免,8月相沢三郎中佐による統制派のリーダー永田鉄山軍務局長の暗殺などで,両派の対立は激化一途をたどった。

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世界大百科事典内の二・二六事件の言及

【緒方竹虎】より

…編集局長,主筆,常務・専務理事をへて43年副社長となる。この間,二・二六事件の際単身,同社を襲った反乱軍と対決した話は有名。44年小磯国昭内閣の国務相兼情報局総裁,翌年東久邇稔彦内閣の国務相兼内閣書記官長兼情報局総裁に就任。…

【北一輝】より

…満州事変期には大川周明,権藤成卿らとともに国家改造をめざす運動の中心的指導者の位置を占めたが,その間,三井財閥から情報料として多額の活動資金を入手していた。二・二六事件には直接関与しなかったが,事件の黒幕とみなされて軍法会議に付され,西田とともに銃殺刑に処された。【江口 圭一】。…

【粛軍】より

…軍内部の粛正を指すが,日本の近代史においては,二・二六事件前後の時期に陸軍内部の派閥争いをめぐって問題となった。最初に粛軍を唱えたのは,1935年7月,村中孝次,磯部浅一が発表した〈粛軍に関する意見書〉であり,それは士官学校事件をでっちあげて青年将校運動を弾圧した責任を追及するとともに,1931年の三月事件,十月事件が陰ぺいされていることに軍不統制の原因があるとして,関係者の粛正を求めたものであった。…

【日本改造法案大綱】より

…北が1919年(大正8)8月に上海において書きあげ謄写版で印刷して配布した〈《国家改造案原理大綱》〉が内務省により発売頒布を禁止され,23年に改造社より〈《日本改造法案大綱》〉の題名で削除と伏字だらけで刊行され,26年に西田税の手により再刊され,28年(昭和3)には同じく西田の手で削除と伏字を復活させた版が刊行された。改革された在郷軍人会を実行主体とし,天皇大権を発動してクーデタを行うというこの〈改造法案〉は,西田税を媒介にして主として陸軍青年将校の支持を得て,二・二六事件を招来したことは有名である。しかし北一輝がここで描く国家社会主義構想は,万世一系の天皇を現人神として絶対視したいわゆる超国家主義とは,大きく相違するものであった。…

【ファシズム】より

…軍事侵略を先行させる形で〈上からのファシズム〉が進行したのである。軍部は二・二六事件で政治的実権をにぎると,ファシズム運動を抑え,支配層を引きずり国家総動員体制の樹立という形でファシズム体制の確立をはかった。戦争政策に批判的な運動が弾圧されたばかりでなく,軍部批判の出口となりうる機構や組織は無力化ないし解体され,国民は翼賛体制のなかに強制的に組織化されたのである。…

※「二・二六事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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