二条道平(読み)にじょうみちひら

改訂新版 世界大百科事典 「二条道平」の意味・わかりやすい解説

二条道平 (にじょうみちひら)
生没年:1288-1335(正応1-建武2)

鎌倉末期の公卿。父は兼基。内大臣右大臣左大臣を経て1316年(正和5)関白氏長者となる。18年(文保2)いったん辞し,27-30年(嘉暦2-元徳2)再び関白。隠岐に流されていた後醍醐天皇は,33年(元弘3)伯耆に脱出すると詔を発して道平を左大臣,氏長者となした。建武政権では左大臣,兵部卿となったが,天皇親政のため関白にはならなかった。
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朝日日本歴史人物事典 「二条道平」の解説

二条道平

没年:建武2.2.4(1335.2.27)
生年正応1(1288)
鎌倉後期の公卿。父は兼基。母は藤原為顕の娘。良基は子。後光明照院殿と称した。正和2(1313)年左大臣,翌年従一位。5年関白に補任されたが,文保2(1318)年辞任。後醍醐天皇の第2次討幕運動に関与したため,正慶1/元弘2(1332)年4月10日に鎌倉幕府から問責され,父兼基に預けられた。しかし,天皇の討幕運動が成功するや,左大臣,氏長者となった。日記に『後光明照院関白道平公記』がある。

(佐藤和彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「二条道平」の解説

二条道平 にじょう-みちひら

1288-1335 鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人
正応(しょうおう)元年生まれ。父は二条兼基。母は藤原為顕(ためあき)の娘宣子(せんし)。永仁(えいにん)3年従三位。左大臣をへて正和(しょうわ)5年関白。元弘の乱に関与したとして鎌倉幕府から問責をうけるが,建武(けんむ)政権の成立で左大臣に復した。従一位。歌は「新後撰和歌集」などにある。建武2年2月4日死去。48歳。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「二条道平」の意味・わかりやすい解説

二条道平
にじょうみちひら

[生]弘安10(1287)
[没]建武2(1335).2.4.
鎌倉時代後期の公卿。諡,後光明照院。兼基の子。従一位,左大臣,関白。元弘3=正慶2 (1333) 年5月左大臣に復任し,後醍醐天皇親政のもとで最高の地位を占めた。

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世界大百科事典(旧版)内の二条道平の言及

【元弘の乱】より

…このたびの幕府の処分は正中の変のときに比べて大規模かつ厳しいものであった。天皇と皇子たちの配流はもとより,幕府は与同者たる僧俗を執拗に追及し,32年4月に二条道平,花山院師賢,万里小路藤房,文観,円観ら20余名を斬首や遠流などに処した。天皇が隠岐へ流されたのは32年3月であったが,幕府との戦いは護良親王や楠木正成らによって根強く続けられた。…

※「二条道平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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