二宮村(読み)にのみやむら

日本歴史地名大系 「二宮村」の解説

二宮村
にのみやむら

[現在地名]二宮町二宮・富士見が丘ふじみがおか一―三丁目

南に相模湾を望み、海沿いを東海道が通る。宇田うだ(現葛川)が中央を流れ、東南の峰岸みねぎし山の南で大きく東に折れ国府新宿こうしんしく(現大磯町)へ流れる。西は吾妻あづま山を挟んで山西やまにし村、北は虫窪むしくぼ(現大磯町)中里なかざと村に接する。嘉禎四年(一二三八)四月日の安嘉門院(邦子内親王)庁政所下文(県史一)にみえる「二宮河勾庄」の一部。永禄二年(一五五九)八月一八日の北条家朱印状(県史三)に「二宮六月関」とみえ、ここで徴収された関銭のうち毎年五〇〇疋が大磯地福じふく寺の客殿修理費用に充てられている。関の設けられた時期などは不明。また海寄りの字塩海しぼみは「和名抄」の余綾よろき霜見しもみ郷に比定される。

近世は初め幕府直轄領、元禄一二年(一六九九)六浦藩領と幕府直轄領の二給、文化八年(一八一一)六浦藩領と旗本曾我・小笠原領の三給。大磯宿の大助郷を勤め、元禄七年の助郷高五五一石(「大磯宿助郷村高覚」県史九)。天明五年(一七八五)一一月の漁猟場紛争につき願書(県史五)によると船六艘で船持が六名おり、運上を支払うことで漁場占有権を得、猟場を分割して漁を営んだ。

二宮村
にのみやむら

[現在地名]鹿島町二宮

邑知おうち地溝帯東部、石動せきどう山麓の二宮川上流に位置する。地名は能登国二宮の五社権現(現伊須流岐比古神社)の登り口にあたることによる。内浦街道の主要宿駅で、南の芹川せりかわ村、東の武部たけべ村とともに集落は街村を形成する。石動山への登り口であり、本社まで五八町を示す文政三年(一八二〇)前田土佐守寄進の道標が立つ。

天正八年(一五八〇)から一部が長連竜領で、文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳に村名がみえ、高四九石余が長領。正保郷帳では同領高八〇石余、田方五町三反余で畑方少々、免は三ツ二歩三厘。加賀藩直轄領は慶長一一年(一六〇六)の年貢米先高八六八俵・出分六〇俵余(「田畠先高分書付」二宮区有文書)。正保郷帳では高四六四石余、田方二六町八反余・畑方四町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(二宮区有文書)の高五一五石、免四ツ三歩、小物成として山役二七九匁・苦竹役一五匁。

二宮村
にのみやむら

[現在地名]あきる野市二宮・二宮東にのみやひがし秋川あきがわ

秋留あきる台地東端の低位面に立地し、南東部で平井ひらい川が多摩川に合流する。一帯は「和名抄」にみえる多摩郡小川おがわ郷に属したと考えられる。二宮は地内に鎮座の二宮神社に由来するが、もと小河大明神と称された同社は「当国六所之随一」で(私案抄)、府中六所宮の第二の宮であることから二宮神社を称したという。当地は武蔵七党の一つ西党二宮氏の根拠地と推定され、建暦三年(一二一三)二宮忠久は同族小川直高と二宮社領をめぐって争論、結果は小川氏側の勝利に終わり、直高は源親広から二宮社の地主職に任ぜられ、武蔵国留守所から地頭職に任ぜられている(同年九月一日「源親広下文写」川上忠塞一流家譜など)。のち二宮は武蔵国守護代大石氏の根拠地となり、大石氏の居館が構えられた。応永三三年(一四二六)八月甲斐の武田信長討伐のため一色持家に率いられて出陣した白旗一揆は「武州二宮」に集合・滞在したあと、甲斐国都留つる郡大月に向けて出発しており(「久下修理亮入道代憲兼着到状写」松平義行氏所蔵文書)、二宮が大石氏の本拠で、甲武交通上の要地としても重視されていたことがわかる。

二宮村
にのみやむら

[現在地名]津山市二宮

津山城下近郷西部に位置し、東は小田中おだなか村、北は下田邑しもたのむら村、南端は吉井川に接する。正安二年(一三〇〇)二月日の素浄外十五名連署陳状案(金剛三昧院文書)によれば、承久三年(一二二一)二宮庄の地頭職に道寛の高祖父行寛法印が任ぜられ、所当の半分を紀州高野山勝法院に譲った。その後、僧正御房が行寛の誡文の旨に背いて押妨したため、道寛・本智・松千代丸などが訴え、勝法院と相論となった。立石家由緒書上(立石文書)によれば、二宮城(美和山城)には立石掃部佐久朝がいたが、文亀二年(一五〇二)の合戦により久朝ら二〇人が討死、「二宮村之内大名と申所」に墓を建てたという。

西西条さいさいじよう郡に属する。「作陽誌」に、もと美和みわ村あるいは三和村を二宮(高野神社)鎮座の地なるをもって二宮村と改称したとある。

二宮村
にくうむら

[現在地名]佐和田町二宮

石田いしだ川が真光寺しんこうじ川と片貝かたがい川に分れる辺りに位置し、広大な扇状地を見下ろす丘陵上に立地。南は石田村、西は山田やまだ村、北は真光寺村、東は上矢馳かみやばせ村・市野沢いちのさわ村。明治二一年(一八八八)の土地台帳絵図(二宮区有)に載る当村地内の地字には下馬坂げばさか(二宮神社の登り口)神田かんだ神子免みこめん伽藍堂がらんどう堂田どうでん・観音堂・地子免じしめん宮野みやの馬上免ばしようめん御供米ごくうまい明神畑みようじんばたけ明神請みようじんうけなど宗教関係の地名が多い。二宮保の遺称地。「佐州巡村記」によると、田四六町六反余・高九〇六石八斗余、畑一〇町八反余・高一一〇石九斗余、田取米四〇一石九斗余・畑取米一五石七斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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