二個師団増設問題(読み)にこしだんぞうせつもんだい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「二個師団増設問題」の意味・わかりやすい解説

二個師団増設問題
にこしだんぞうせつもんだい

陸軍が強硬に要求し第一次憲政擁護運動大正政変基因となった問題。平時25個師団の建設を決めた1907年(明治40)の帝国国防方針に沿いつつ、現有19個師団の陸軍は、10年の韓国併合後、ロシアへの備えなどを理由に朝鮮配備の2個師団増設を要求した。第二次桂(かつら)太郎内閣は財政難を理由にそれを抑えたが、11年第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣が成立し、中国に辛亥(しんがい)革命が起こると、流動化する情勢に即応するためにもとふたたび要求。その根底には海軍への対抗、陸軍の軍拡や大陸政略を妨げかねない政党勢力の増大への危機感があった。そこで陸軍はこの要求に固執し、12年(大正1)12月閣議が翌年度からの着手を拒否すると、上原勇作(うえはらゆうさく)陸相を辞任させて後任を出さず同内閣を倒した。陸軍は寺内正毅(てらうちまさたけ)を首班とする軍部内閣すら構想していたがならず、憲政擁護運動の高揚により増師も頓挫(とんざ)した。しかし以後も強く要求し続け、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣下の15年に認められた。

[阿部恒久]

『由井正臣「2個師団増設問題と軍部」(『駒沢史学』第17号所収・1970・駒沢大学史学会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「二個師団増設問題」の意味・わかりやすい解説

二個師団増設問題 (にこしだんぞうせつもんだい)

日露戦争後から第1次世界大戦にいたる間の陸軍軍備拡張をめぐる政治問題。日露戦争開始期13個師団であった陸軍兵力は,戦時に4個師団増え,戦後の1906年9月に2個師団増設され19個師団となった。翌07年策定の帝国国防方針にもとづき陸軍はさらに朝鮮駐留の2個師団増設を要求したが,戦後の財政難のなかでこの要求は実現しなかった。11年8月成立の第2次西園寺公望内閣は,行財政整理を政策の中心にすえたが,陸海軍は軍備拡張を要求した。同年10月の中国の辛亥革命は軍部首脳に強い衝撃を与え,朝鮮,満州への革命の波及をおそれた陸軍は朝鮮常駐の2個師団増設を強く要求するにいたった。しかし世論は行財政整理を切望し,師団増設に反対した。こうしたなかで上原勇作陸相,田中義一軍務局長は財界などに働きかけ,12年11月22日の閣議に6ヵ年継続,総額1200万円の増師を要求した。しかし閣議は増師案を否決し,12月2日上原陸相は帷幄(いあく)上奏の形で単独辞職し,陸軍は後任陸相を推薦しなかったため西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。

 この事件をきっかけに世論の軍閥横暴の批判が高まり,大正政変・第1次護憲運動へと発展していく。その後二個師団増設問題は政界の底流にくすぶりつづけるが,1914年4月成立の第2次大隈重信内閣は,第1次世界大戦勃発を背景に,第35議会に2個師団増設予算を提出したが,政友会の反対で否決され,議会を解散した。選挙で大勝した大隈内閣は,15年6月第36議会で増師案を通過させ,同年12月第19(羅南),第20(竜山)師団が編成された。
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世界大百科事典(旧版)内の二個師団増設問題の言及

【原敬】より

…ついで11年8月成立の第2次西園寺内閣でも内相として入閣。12年末二個師団増設問題により内閣が倒れるまで,いわゆる桂園内閣時代において,松田正久とならぶ政友会の二大支柱の一人として活躍した。すなわち内務官僚の政友会接近を促進し,一方,鉄道・港湾事業により政友会の地盤を拡大し,政友会が衆議院議席の過半数を占めることに成功した。…

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