二俣城跡(読み)ふたまたじようあと

日本歴史地名大系 「二俣城跡」の解説

二俣城跡
ふたまたじようあと

[現在地名]天竜市二俣町二俣・二俣町鹿島

中世の二俣郷にあった城。直線距離二キロのうちに北から笹岡ささおか城山しろやま鳥羽山とばやまの三ヵ所に城があり、いずれも文書では「二俣城」と記される。現在、地元では二俣城といえば城山をさす。三城の立地や城の構造、笹岡・鳥羽山両城の調査の結果を考慮すれば、笹岡が最も古くから使用されたとみられる。また軍事的視点からみれば、鳥羽山が最も優れているように思われる。天守台をもつ城山が最も新しいと考えられるが、使用された時期は三城とも重なる可能性もある。しかしここでは笹岡を平安末期から永禄(一五五八―七〇)頃、城山・鳥羽山両城を永禄から慶長(一五九六―一六一五)までと考えて記述し、後者を二俣川を挟んで立地する別郭一城ととらえておく。建武五年(一三三八)正月の内田致景軍忠状写(内田文書)に「二俣城」とみえ、北朝方に属した内田致景が同年一月九日二俣城における合戦での軍功を上申している。内田氏は建武三年九月以来、横地よこじ(現菊川町)気多けた(現春野町)など遠江の各地で南朝方と対峙転戦していた(建武三年一〇月「円阿軍忠状写」同文書)

明応―永正年間(一四九二―一五二一)遠江守護斯波氏と駿河守護今川氏が遠江国をめぐって争ったが、文亀元年(一五〇一)八月には斯波義雄の要請を受け信濃の小笠原貞朝が二俣の城に在陣しており(八月一二日「斯波義雄書状」勝山小笠原文書)、義雄はさらに大谷盛勝を使者として派遣し小笠原定基にも遠江国への出陣を要請している(七月六日「斯波義雄書状」同文書)。しかし永正元年頃までには社山やしろやま(現豊岡村)の斯波義雄も朝比奈泰熙・同時茂らとの戦に敗れ、二俣の城まで撤退していた(宗長日記)。同三年と推定される三月二三日の瀬名一秀書状(勝山小笠原文書)に「将又我々も二俣城取立候」とあり、今川氏親家臣瀬名一秀が二俣城を奪取している。その後今川氏の被官が在城し、二俣昌長、松井氏三代(貞宗・宗信・宗恒)などの名が知られる。永禄二年(一五五九)二月二二日、今川氏真は松井宗信が父貞宗から譲与された野辺のべ(野部、現豊岡村)鎌田かまだ御厨(現磐田市)と二俣などの知行と今川氏直轄領代官職を安堵している(「今川氏真判物写」土佐国蠧簡集残篇)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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